雇われ女優の久我山さん

 

    

1年目、4月



正面から歩いてくるのは、今朝まで同じベッドの中にいた人。

結婚してから三ヶ月以上たった今、こういうシーンにも随分慣れてきたような気がする。ここは会社、なのだから必要な事以外は別に話す必要はない。


「あ、ダーリンですよ、厚美さん。」

「三枝さん、ここ会社。だから、信濃さん、ね。」

「もう、厚美さん、お堅いんだから。それに、今は会社とはいえ、お昼休みです。」


お昼のごった返す社食でも、信濃さんはすぐに目に入ってくる。贔屓目抜きにしても、彼は格好いい。だから目に入ってしまうのは、わたしだけではないだろう。現に三枝さんはいつもすぐに気付いてる。


「お二人って本当にあっさりしてますよね。会社で会っても、特段話もしないし。かと言って、目線が合って変な逸らし方とかもしないし。知らない人には、全く夫婦だなんて気付かれませんよ。」

「だって、ここ会社だから。他の人と同じでしょ。」

「でも、そこは…なんて言うんですか、もっと、こう盛り上がっても、」

「それは三枝さんの好きなロマンス小説の中だけで萌えてて。」


部署が違うお陰で、付け加えるなら業務上関わりのない部門同士なので、会社で会うとしても社食くらい。それか、会議室のあるエリアですれ違う程度。これが営業とその経費精算をする経理の担当者とかだったら、やり辛かっただろう。

だから驚く、部署にやって来られると。


「久我山、今日仕事どんな感じ?」

結婚を決めてから、信濃さんは会社でわたしを『厚美』と呼ばなくなった。必ず久我山と呼ぶ。たとえ昼休みでも『久我山』だ。勿論、わたしも信濃さんを信濃さんと呼んでいる。


「定時プラス30分以内には終わるかな。」

「分かった。じゃあ、7時に駅ビルの本屋で。夕飯、外で食べよう。」

信濃さんはそれだけ言うと、隣の部署の部長さんの席へ向かっていった。


そしてPC画面にはインスタントメッセージ新着のフラッシュ。相手は勿論三枝さん。

『咲、萌えました〜〜〜!あっさりしてるかと思いきや、仲良しさん!初めてですよね、信濃さんが厚美さんの席に来るの。』

『そう?知らない。』

『何しに来たんですか?』

『家庭内業務連絡。』

『もう、咲に分からない世界だからって適当にあしらって。いいな、春!』

『じゃあ三枝さんも春になったら。いっその事、夏くらいまで進んでみたら。』

『だから相手がいないんですって。』


三枝さんは話し方とか雰囲気とか、あ、何より顔とか、どれをとっても可愛い。だけど、確かに男の人から見たらなかなか難しい物件だろうな。あれ、だけど、体型は可愛くないか、グラマーだもんな。背がちびっこい割に、出てるんだよね、胸。

それこそ、そういうのが好きな人には『萌え』の対象だと思うけど。




「びっくりした。信濃さんがわたしの席に来るなんて。」

そう、三枝さんが言ったことは当たっていた。結婚してから、というよりお互いを認識してからの期間を含めて初めてのこと、信濃さんがわたしの席を訪ねてきたのは。

「たまたま、新入社員が厚美の噂をしていたから。一応、厚美には俺がいるって釘をさしておこうと思って、わざと行った。」

「噂って…そりゃあ人事の人間なんだから新入社員達の話のネタにはなるでしょうよ。でも、配属まだなんだから、周りに新入社員なんていないじゃん。」

「…行ってから、俺もそう思った。」

「けど、そういうの嬉しいかも。」

「そろそろ暑くなるから、毎日首筋にでもキスマーク付けとくか。」

「その冗談、笑えない。」

「笑わなくていいよ、本気だから。」


本屋での待ち合わせ指定なんて、本来ならメールで十分事足りる。事実、わたしが忙しい時はそうしてくれていた。

でも、いろんな電子ツールがどうにでもしてくれるこのご時世に『来て』くれたのはなんだか嬉しかった。

うん、夜はキスマーク付けられないようにしつつも、サービス、しよっと。




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