絶対条件
絶対条件
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『耶恵(やえ)はきっとお見合い結婚だよ。』
高校でも大学でも友達に言われた言葉。
本人もそう思っていただけに、父の言葉に耶恵はただ『ハイ。』とだけ返事をした。
「期日までまだ二週間ある。まあ、耶恵が選ばれる可能性は低いが、エステにでも行って努力はしろ。」
「ハイ。」
耶恵は中学・高校・大学と女子校を出た。兄弟姉妹は弟が二人。一人は大学三年、もう一人は高校二年だ。姉に比べ弟二人はとてもしっかりしている。高校も大学も耶恵のように父の言いなりではなかった。珍しく夕食の席にいる父のその言葉に二人はきっと『またか』と思っただろう。
父は虎視眈々と出世の機会を狙う男だった。そして今の地位を手に入れた。今回の見合いは取引先の役員から父の会社の役員になされた話。父のことだ二つ返事で自分の娘を差し出したに違いない。娘すら出生の道具に使うことは、耶恵の出身校の名前をみれば明白なのだから。
その父の会社は日本でも、いや世界でも有数の大きな会社だ。役員の鶴の一声に手を挙げたものは多かっただろう。なにせ上手くいけば、役員との繋がり、更には相手先の役員との関係までもが持てるのだから。
父が言った耶恵が選ばれる可能性は低いというのは、そこに起因する。何人かのものが見合い相手を差し出したのだろう。相手は何回見合いをするつもりなのだろうか。
「耶恵、入るよ。」
すぐ下の大学生の弟は、いつからだったろうか耶恵を呼び捨てにするようになっていた。
「何、克実、ノックぐらいしてよ。」
着替えをしていた耶恵は二者選択で『上』を取った。上というのは、パジャマの上ということ、下は諦めた。
けれどいくら弟とは言え、パンツ一枚にノーブラでパジャマの上だけというのは、かなり恥ずかしい。
「ゴメン。」
その姿に弟が小さな声で謝り、言葉を続けた。
「ブラつけるの外で待とうか、それともブラつけるのを手伝った方がいい?」
「外」
「見たこと何度もあるから、遠慮しなくていいのに。いいや、耶恵も面倒だろうから、そのままで。」
「えっ、」
「そんな長い話でもないし。聞きたかっただけ、それでいいのかって。」
主語や目的がなくても、弟が言いたいことは分かった。
「いいも何も、もう決まっているんだから。」
「好きな人、いないの?」
「そりゃあ、ちょっといいなとか、ちょっと好きだなって思う人はいるけど、わたしが一方的に好きなだけだもの。どうなる相手でもないし。それに、お父さんが言った通りわたしが選ばれることはないよ。だったらエステに散々行って、服も買ってもらえるんだからいい話じゃない。お父さんのことだから、服、結構張り込むと思うんだよね。」
「人の好みはわかんないだろ。それに、耶恵、かわいいよ。」
「それを身内贔屓って言うんだよ。」
「おっぱいだってこんなにふかふかだし。」
「もう、克実、いくら兄弟だからってしていい事と悪い事があるっていつも言ってるでしょ。」
名前を呼び捨てにするのと同様、いつからか克実のスキンシップはちょっと度が過ぎるようになっていた。耶恵が知る限り、高校の頃から彼女が途絶えていないようなのだから、その手のことだって事足りているはずだ。
「いいも悪いも、耶恵のが一番触り心地いいから。やっぱ処女のおっぱいって違うのかな。」
「処女と付き合ったことだってあるんでしょ。」
「まあ、それなり楽しませてもらいました。」
「もう…、さ、出てって。お見合いに備えてスキンケアしなきゃいけないから。」
克実に言われるまでもなかった。耶恵にいい悪いを判断する権利はなく、決定事項を受け入れるしかなかったのだから。
見合い当日、父は車の中で相手の基本的なことを教えてくれた。相手からの釣書などないのだから、それを聞くしかない。年齢は耶恵より8歳年上で32歳。会社名にその会社でのポジション。現在の住まい、出身大学。父が言う基本的なこととはそれだけだった。
写真だって見合いが決まった後日とったものを相手先に渡したが、先方からはそんなものはなかった。だから父が提示した5枚のカードで相手を想像するしかない。想像したところで何があるわけでもないだろうが。
見合い相手が来てからの父は、家でみるのとは全く違っていた。この時程、父は母に対して二人きりのときはどんな態度をとっているのか知りたいと思ったことはなかった。
32歳という田辺尚哉は、32歳と言われればそう見えないこともないが、スーツでなければもっと若く見えるだろう。そして…耶恵がたまに目線を上げて見る限り、耶恵に、というよりもっと根本的なことを言うと見合い自体に興味など持っていないように見えた。
だから尚更、ドラマ等で見る当事者二人だけにされ耶恵は非常に困った。
何か言わなければ…。
「あの、今日はお時間ありがとうございました。お見合いがどういうものか経験出来てよかったです。」
いかにも逃げ腰な、正しく退席の意を表すような挨拶に尚哉は数度瞬きをしたが、
「これじゃあ、見合いがどういうものかは分からないんじゃないですか。」
とたいした抑揚もなく言葉を発した。
尚哉の話し方や声のトーン、更には態度から醸し出される雰囲気に、耶恵は父のそれに似た何かを感じとった。
「君もここからあまり早く放り出されたら立場ないんじゃない。」
「あ、お気になさらず。わたし達家族は自分達の身の丈、特にわたしのことに関しては弁えていますから。」
「あの父親も?」
「はい。父にしても結果がどうなるかなんて分かってます。きっと今日ここにいることが重要だったんでしょう。」
「若い割にはそういう都合は弁えているんだな。」
耶恵はついうっかり父の心内を言ってしまったことを後悔しつつも、どうせこの田辺という人もそんなことはとうに理解しているんだろうと腹をくくった。
「もし、お急ぎの仕事があるようでしたら、わたし、はずしますので、遠慮せずにおっしゃって下さい。適当な時間に戻ってきますので。」
「君、今、付き合っている男は?」
「はっ?」
「男はいるのかと聞いている。」
「そんな人はいません。」
「その場で立ち上がってくれ。」
どうして尚哉がそんなことを言うのか分からないが、立場上したがうのは耶恵の方だ。立ち上がると、それまで緊張でどこかへ行っていた痺れがやってきた。
無様なことは出来ない。耶恵は痺れが過ぎ去るのを心から願った。
「じゃあ、上からスリーサイズ、言って。」
「は?」
「サイズ。ついでに身長と体重。」
「あの、」
「ストレートでいいだろ。それぞれの相手のサイズを確認して、その中から好みを選ぶ。それだけだ。」
他の女性もこんな失礼な質問に返事をしたのだろうか。これじゃあ品評会のようなものだ。ただ一斉に並ばさせられていないだけで。
でも、みんな一様に自分の立場を理解し答えたに違いない。今、正しく、耶恵もしようとしているように。
「身長は167cm、体重は…」
けれど自分のサイズを、しかも初対面の人に言うなんてことは耶恵には耐えられないほど恥ずかしかった。身長以外はことの外声が小さくなった。
「ウエストの割に、バスト88、ヒップ90とは、なかなかいいな。そのケツなら子供は2、3人軽く産めるだろうし。騎乗位でしてもらったら揺れる胸で目を楽しませてもらえる。」
品評会のようではなく、品評会なんだと耶恵は悟った。どうしてか知らないけれど、見合いで結婚をすることにしたこの田辺尚哉の為の。評価する項目は夜の楽しみになるかと、子供を産めるかどうか。
出来れば尚哉の時間の為ではなく、自分の精神衛生の為にこの場をすぐに出たいと耶恵は思った。けれど、冷たい声にそれは打ち消された。
「座れ、と言ったんだが、聞こえなかったか。」
「あ、すみません。これで田辺さんが必要としている情報は全部得られましたか?」
「ほぼ。もう一つ知りたかったことは、聞くまでもないようだからいいとしよう。」
「わたしからも質問していいですか?」
「馬鹿げたことでなければ。」
「田辺さんなら、結婚しようと思えばお見合いなんて必要ないと思います。なのに、どうしてお見合いで結婚しようと思ったんですか?」
「馬鹿げた質問だが、堂々と馬鹿げたことを聞いたその態度に敬意を表して答えよう。こんな見合いにのこのこやってくるなんて、自分の立場を知っているってことだろう。その上両親も観察できれば、どういうふうに育てられたか想像がつく。何より、俺の不躾な質問に答えた女は立場を理解した上に従順ということになる。結婚は婚姻届けという書類に押印する契約なんだから、契約相手は扱いやすい方がいいだろ。そういうことだ。他に聞きたいことは?」
「ありません。」
「じゃあ、俺からもう一つ。選ばれたいか?」
その質問に耶恵は間髪を入れず、『イイエ』というところだった。いくら心ではそう思ったとしてもさすがにそれはまずい。
どんなに嫌だと思っても大人としての回答をしなくては。
「田辺さんのようなお立場の方にわたしでは役不足に思えます。」
「それは断っているのか。」
尚哉の質問は最もで、その先には耶恵が思いつく限り最低でも二つの答えがある。一つ目は、役不足なので辞退したい。もう一つは役不足だが努力したい。しかし断っているのかと切り返されたように、耶恵の声のトーン、話し方から真意は汲み取っているのだろう。
「わたしはただ事実をお伝えしたまでです。」
「そうか、分かった。」
一体何を分かったのだろうか。そんな疑問が耶恵の脳裏を過る中、尚哉が携帯を取って一言「もういい。」と言った。程なくして、耶恵の両親と世話役、それに尚哉より何歳か年上のような男が二人のもとにやってきた。