絶対条件

 

15


田辺尚哉との結婚生活。頭に浮かぶのは悪いことばかり。でも落ち着いて、もっと高い位置から見てみると悪いことばかりではない。

語学の勉強は、隼人が言ったようにしておいたほうが良いに決まっている。

上流階級の人達が集まる習い事で得られる人脈だって、尚哉の為だけでなく、いつか耶恵にとってプラスになるかもしれない。

この結婚で耶恵が負う恐怖や苦痛の量は計り知れないが、それ以上の代価を得ることが考えようによっては出来る気がする。

 

リカが示唆したように、尚哉のゴールはグループ会社本体の社長収まることではなくその先の何かのような気がする。考えてみれば、社長に収まるためにはもっと良い結婚話があるはずだ。けれど、耶恵を選んだのには別の目的があるから。それ以外考えづらい。

 

尚哉は事を起こし始めようとしている。

使い捨てられる耶恵はただの駒。従順で思い通りに動く。もしかすると、その駒を切り捨てるときの手切れ金なのかもしれない、マンションは。だから、物件を耶恵に選ばせ、名義も耶恵のものにした。なぜもっと早くこの事に気がつかなかったのだろう。

蜘蛛の糸、耶恵の頭にあまりにも有名すぎる物語のタイトルが浮かんだ。自分だけが助かろうとすれば切れてしまう糸。

耶恵はこれから更に落ちようとしている地獄のどこかに、小さいながらも出口があるように思えた。けれど、そこはどうすれば見つかって、どうやれば通り抜けられるのか。一人で、それとも…

とにかく待たなくてはいけない。

 

娘 として生まれてきた、父のステイタスがそれなりの神田家では、当然のことながら見た目上は何不自由なく育てられた。しかしながら、育ててもらったという事 以外は何もない。ないどころか、心の中身を日々失い続けた。その中で得ていったものは、失いながらもどうやったら自分を保ち、心も体も深く傷つかず生きて いくかということ。

今までもこうしてやってきた。

その時はきっとやってくる。まだ何も見えてはいないが、何故か耶恵はそう思えた。

知識、人脈、生きていく術、何でもいい、失う以上に得なくては。

 

ぐらつき始めていた心は、不思議と落ち着きを取り戻していた。もう、いつ、迎えが来ても大丈夫と言える程に。

事実、それから少しして鳴った呼び鈴に耶恵はもう一度鏡を覗きこんで笑顔をチェックする余裕があった。

 

そそくさと玄関へ向かった父の声のトーンから、田辺尚哉ではなく隼人達が迎えに来たのが分かった。先ほどまでの耶恵ならば、そのことに安堵しただろう。

「わざわざありがとうございます。」

けれど、隼人達に向けた声にも表情にもそれは出なかった。そもそも尚哉に対する変な緊張は既に消えていたのだから、安堵自体存在していなかった。

 

「少し早く到着してしまいましたが、お支度はお済みでしたでしょうか?」

「はい、では、お父さん、お母さん、行ってまいります。」

何を言わなくても、当然のこととして耶恵は隼人に荷物を渡した。受け取った隼人も何も言わず、荷物を持ち耶恵を先導する。更に、リカは耶恵の後ろに控えてついていく。そこには明確な立場が存在し、それぞれがちゃんと理解している。

 

「耶恵様、お心を決めましたね。」

車のドアを開けるとき、隼人が小さな声で耶恵に話しかけた。隼人はどこまでを指しているのだろうかという疑問がわいたが、耶恵は小さく頷き、口角を上げるだけの笑みで返した。

「今日、何が起ころうとそのお心をお保ち下さい。」

いつもと同じ隼人の口調、声のトーンなのに、耶恵は不気味さを覚えた。


車が滑るように動き始めると、隼人がこれからの予定を話し始めた。夕食は隣県にあるホテルのレストランで取るとのこと。その後、更に移動があるらしい。移動先は尚哉が所有する別荘。けれど、この別荘へは特別な時以外行くことはないと言われた。

『特別な時』、一体どんな特別があるというのだろうか。残念ながらそれ以上のことを隼人は話してはくれなかった。その時は時間の経過と共にやって来る。というより、耶恵はその特別な時からは逃げられない。覚悟を決めた以上は、来るのを待つだけだ。

 

ホテルはやはりと言うべきか、当然と言うべきか最高級にカテゴライズされる一軒だった。隼人の先導のもとラウンジに向かう耶恵は傍目には堂々として映っているだろう。でも、心は小刻みに震えていた。何をどう決意しても、怖いものは怖い。そして、耶恵をむかえるその笑みに背筋が凍りつきそうにならずにはいられなかった。

けれど、ほほ笑まなければ。顔が強張ってしまったら後で尚哉に何と言われるか。

隼人が尚哉の手前数歩のところで止まった。後は一人で進めということなのだろう。たった数歩でも、足取りは軽く幸福感が出るようにしなくては。決して、恐怖や嫌悪があってはいけない。

 

「今日はわざわざありがとうございます。楽しみにして参りました。」

笑えているだろうか?幸せそうに見えているだろうか?

「こちらこそありがとう。なかなか会えなくて申し訳ない。今日は、その埋め合わせをするつもりだから。」

答えはきっと『大丈夫』だったのだろう。尚哉の言葉、差し出された腕がそう言っている。ホテル内のレストランまでの道、どれだけの人が二人を目にするのだろうか。尚哉はそれも見越している。

急な結婚。でも、そこには魅かれあった二人が必要なのだろう。たとえ見合とはいえ。結婚が自然に見えるよう。


「腹をくくったんだな。」

レストランに入る前、尚哉が小さな声で言った。

「何のことでしょう。わたしは父に決められたことを覆すようなことはいたしません。」

耶恵は笑顔を絶やすことなく、小さな声で尚哉に返した。

 

尚哉はどこまでを指して腹をくくったと言ったのだろうか。察しはつくが、耶恵としてはもっと先までの腹をくくったとは今言うことは出来ない。だからこの答えが妥当だろう。運が良ければ『何のことですか』に尚哉から答えも得られるだろうし。

「やっぱりお前を選んで正解だな。」

やっぱりは何に対してのやっぱりなのだろうか。少しずつでいい、尚哉の予測する範囲を確定させる方法を見出すのが直近の課題だと耶恵は思った。

 

食事の味はちゃんと楽しめていた。会話は最小限と言ったところだろうが。

耶恵としてはありがたいことだ。事実、尚哉に聞いて欲しい話など何もない。これから一緒に暮らすことがこれで成り立つのかは疑問が残るが。

成り立つ?耶恵はなんてバカなことを考えてしまったのかと思った。今まで散々会話がなくても成立している夫婦を見続けていたというのに。

 

「足りないものはないか?」

「あ、はい、ありません。十分すぎる程そろえていただいています。それと、これ、本当にありがとうございました。退社の良い記念になりました。」

「退社か、オレとしては、首輪の付け替えのつもりだったのだが。それくらい分かっていただろう。」

「いいえ、わたしはお気持ちに対してお礼を言いたかっただけです。」

「ふん、そんなものはどうでもいい。この後、もっと良い退職祝いを用意してある。」

 

高価な指輪より、もっと良い退職祝い。良いのは誰に対してか。

簡単だ。えも言われぬ恐怖を耶恵に与える、恭祐の美しく冷たい笑み。

耶恵には確実に悪い事が起こり、恭祐には確実に良い事がやって来ることを意味している。

このままずっと食事を続けていたい。けれどもティーカップの底は無情にも見え始めた。更に無情なのは、その状況を獲物を狙うヒョウの如く尚哉が見据えていること。

悪い事が耶恵を待っている。この予想が外れることはないようだった。

 

「今夜は特別な場所に特別なゲストを招いている。お前がゲスト達と顔を合わすことはまずないが、もし合わせた時にはオレの妻になる女として受け答えろ。」

ホテルを出て、海岸線を走る尚哉の車の中で言われたのはこれだけだった。

特別な場所に特別なゲスト。わざわざひと気のない所に尚哉が特別と呼ぶゲストは一体何をするために来るのだろうか…

 

広い駐車場には4、5台の高級車と2台のワゴン車が止まっていた。車を見渡し、尚哉は皮肉な笑みを浮かべ『良い宴になりそうだ』と呟いた。

顔を合わせることがないであろうゲストに宴、どう考えてもこの集まりが耶恵の退職祝いでないのは明らかだ。

「リカが来た。降りろ。」

「はい。」

「耶恵様、お待ちしておりました。」

「ゲスト達は?」

「はい、皆様、軽食を召しあがりながらご歓談中です。」

「準備は?」

「予定通りでございます。」

「そうか。耶恵、おまえはリカと共に行け。オレは挨拶があるから、後で行く。」

当然のことだが、ここがどこで、これから何が始まるのかリカから説明はない。ただ部屋に案内されただけだった。

 

部屋には既に隼人が控えていた。

「耶恵様、到着をお待ちしておりました。では、



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