絶対条件

 

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「ねえ、今日の服って雑誌で見たことあるんだけど、本物だよね。耶恵、ぜんぜん負けてないじゃん、て言うか、しっかりブランド着こなす女になったんだ。」

「ブライダルエステはどこの行ってるの?」

お別れランチと称した、最後の昼食は仲の良い同僚と近くのイタリア料理店へ行った。

 

みんな耶恵が今日身につけているカバン、靴、服、ジュエリーに話が向かう。更にはどんなブライダルエステへ行っているのか、社長夫人になる気分はと、質問は絶えなかった。

ただ会社の昼休みは一時間。どんなに話が続きそうだろうと、時間がきたら終わる。予想通り田辺尚哉そのものにたどり着く前に、会は終わった。

 

「今までのお礼も兼ねて。」

みんなでランチへ行くときなどは、どちらかというと後をついていくタイプだった耶恵。席を立つのだってのんびりゆっくり後のほうだった。それが時間を見計らい席を立つ際には、スマートな仕草で伝票を持っていくという行動を無事にやってのけた。

 

誰も耶恵の心臓が早鐘を打っているとは気付いていないだろう。むしろ落ち着きがあり、余裕すら感じる仕草に見えているはずだ。そこにいた全員が驚きのあまり一瞬時間が止まってしまったことが証明するように。

慌てて一人が「今日はわたしたちが、」と言ったことに対して、さらっと「たまには良い格好させて。」と笑いながら返したのだって本当はドキドキだった。

 

会社へ戻る途中、はるみが『耶恵が耶恵じゃないみたい。大丈夫?』と小さな声で聞いてきた。

「心配しないで、はるちゃん。今までのささやかなお礼だから。今日は特別なの。」

はるみが耶恵の財布の中身を心配したのではないことくらい分かっている。でもわざと耶恵はそう答えた。

 

退社まであと30分。そんなときだったリカからメールが来たのは。

『明日17時に迎えにあがります。一泊分の支度をなさっておいて下さい。退職のお祝いをするということで、お父様から外泊の許可は取ってあります。』

内容は決定事項の連絡だった。

退職祝いをする優しい婚約者、設定はそんなところだろう。両親から話をふられたら、耶恵もその線で話を合わせればいい。

 

17時、 夕食へ出かけるならばこの辺から随分と離れたところまで行くのだろうか。一泊で出かけることだけが耶恵に知らされた全て。不意に胃がきゅーっと締め付けら れるような苦しさを感じた。更には例えようのない恐怖も。この恐怖から自分を解放するにはどうしたらいいのだろうか。

尚哉に会うことを楽しみに思う。それともどんな形であれ、尚哉に抱かれることを楽しみにすれば、恐怖は待ち遠しさや恋しさに変わるのだろうか。


無理、不可能だ。そんなことは。


尚哉としたセックスは克実としたものとはあまりにも違いすぎる。そこには唯一近親相姦という不道徳に対する後ろめたさがないだけ。他の道徳感のない行為に対する後ろめたさならいくらでもある。否、この結婚を決めた今、道徳なんて言葉はもう耶恵には使えないのかもしれない。だったら、克実との行為に何の疑問を持つ必要があるというのだろうか。

尚哉へ対し、耶恵が出来ることは誤差、狂い。でも、本当にそれをすることは耶恵にとって得策なのだろうか。リカは何のためにあんなことをわざと耶恵に言ったのだろうか。

耶恵は駒にしか過ぎない。それは尚哉にとっての。もしかしたら、リカにとっても、更には隼人にとっても。この結婚は狂気の沙汰。そう、もう、何の疑問を持つ必要もない。


疑問など不要なのに自然に頭には今夜のことが擡げてしまう。今度は一体何をされるのだろうか。そして何をさせられるのだろうか。と、その時、膣口の辺りが疼きだし、徐々にだらっとした液体がにじみはじめた。耶恵は尚哉との行為を嫌いながらも、どこかで先日の行為を思い出し下着を濡らしてしまったのだ。悲しくてなのか、疼きが止まらないからなのか、耶恵の目尻には涙がこみ上げた。

その表情は、耶恵を見かけた男性社員の誰もが男を誘う官能的な表情だと思った程だった。


体は期待しているのだろう。恐怖の中で増長する快楽を。では心は?本当は?

やはり考えずにはいられない。馬鹿げている。田辺尚哉と出会ってから、気付けば耶恵の頭は結局あの男に関することばかりだ。


結婚するのだったら『すき』だった方がいい。どうせ見合いで結婚することは決まっていたのだから、好きになるという行為をその相手に向けることも決まっていた。

…決まっていたのに。

父親は嫌い。母親を好きだと思ったことは正直に言うと数回あった程度。理由は忘れたが。後は好きじゃなかった。どちらかと言うと嫌いが正解。

伸哉は好き。そして克実は、誰よりも好き。

耶恵はふと今まで結論付けていたことの根本が違っていたことに気付いた。そもそも今更そんなことに気付いたのは、敢えて目を向けないようにしていた結果なのだろうが。

耶恵は今まで誰かをちゃんと好きになったことがない。もちろん愛などと言う感情には無縁だった。それは、両親からまともな愛情、せめて好きという感情でも良かったのに、それすら与えられたことがなかったからだろう。

だから分からない、本当に分からない、好きというものがどういうものなのか。


二人の弟は…。まだ母親には好かれ愛されていたはず。けれど克実の愛情は歪んでしまっている。伸哉はどうなんだろうか。

自分自身がちゃんと知っていて理解しているならば、伝えたり教えたり出来るかもしれない。でも、知らないのだから…無理だ。尚哉は耶恵が好きという感情を正しく理解出来ていないことにも気がついているのだろうか。

もしかしたらあんな不道徳な行為を楽しめる人物である尚哉も愛情など知らないのだろうか。


結婚まで一ヶ月半。リカが言ったように、相手を知らなければ自分を守れない。そしてどんな数字を追っているのか問題を知らなければ、正しく微小間違えをおかすことなど出来ない。

知らなければ。


あんなに相手を知らなければと思ったのに、16時を過ぎた頃からやっぱり急な用事でもできて断ってくれたらと耶恵は思い始めていた。心なしか、胃の辺りも重い。

「耶恵、」

「はい。」

追い打ちを掛けるように、その人物の耶恵を呼ぶ声はただの声だと言うのに、十二分に耶恵に痛みを与える。

「田辺君がそろえてくれているのに、わたしが言うのも何だが、新しい生活に向けて何か足りないものがあったら言いなさい。父親としては掌中の珠である娘には何でもしてあげたいものだからな。」

字面だけ追えば、嫁に出す娘を持つ父親のそれらしい言葉に見える。けれどもその表情、特に目の奥にあるものを耶恵は見逃したりはしない。


父にとって、耶恵が退社したという事実は、田辺尚哉との結婚が確実にやってくることをはっきりさせたようだった。疎ましく、望んでいなかった長女。せいぜい使えるとしたら、自分にとって都合の良い結婚をさせることくらい。上手く行けば上司の伝で、最低でも手の内の部下にあてがい裏切りを防ぐ程度にはと思っていたことだろう。

ところが、相手は田辺尚哉だ。

人をすぐ階級で判断する父にとって耶恵は娘でありながら、重要な取引先の社長子息の嫁、そう自分より立場が上の人物になろうとしているのだ。

諂っておかなければいけないということになる。たとえ今まで疎んでいても。手のひらを返すとはこのことだろう。なんて滑稽な。


『わたしにまでおべっかを使って、そうまでしてお父さんはどうしたいの?』

父の最終目的はなんなんだろうか。今思い浮かぶ『何か足りない』ものはその答え…。聞いたら父はどうするのだろうか。田辺尚哉とこの後会う娘の頬を殴れば腫れてしまう、だったら目立たないところを思い切り蹴りでもするのだろうか。それはそれで面白い。言い方を攻撃的にすれば、耶恵に対してすぐにキレていた父が現れるだろうか。キレれば迎えが来るまで折檻が続くかもしれない。

けれど、そんなところを見せたからと言って結婚がなくなる訳がない。

お利口で要領の良い耶恵が、素直な耶恵を諭す。無駄なことはせずに今の状況を見極め、最善の言葉を発しろと。


「その言葉だけで十分です。」

父を満足させ、これ以上顔を見合わせなくていい言葉。これでいい。肉体的にも精神的にも、もうこの男からは痛みを負わせられたくない。

「そうか、そうだな。引き止めて悪かった。支度を続けなさい。」

「はい。」

胃液が逆流しそうな気持悪さを感じるのはこれを最後にしよう。もうその必要はなくなる。

なぜ父が耶恵に諂い、更に悪かったとまで言ったのかを考えればいい。

簡単なことだ。耶恵の立場が変わる。あからさますぎて、笑いがこみあげてきそうになる話だが。

あと少しで、父は耶恵の足元以下の立場になることを理解しているのだ。

父 と同じように人を階級で差別するのは嫌だけれど、今回は真似させてもらおう。階級が下になる父に対し、耶恵はもう会うことも話すこともしたくなければしな くていい。耶恵にはそうする権利が生まれるのだ。今まで、耶恵に言葉や肉体への暴力を行う権利を有していた父は消滅しようとしている。



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