楽園のとなり

 

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雅徳と一晩を共にし、更にはあんなことまでしてしまった響子は何となく家で亜樹に会いたくなかった。自然を装う為に、明るい声で亜樹の所在を確認し、その答えに基づき用意していた台詞を言う。電車の中で何パターンか考えては、上手くいくのか疑問に思い、また考えた台詞。どれもあまり褒められたものではなかったのに、亜樹の反応はびっくりするほど予定通りだった。


手の込んだ料理を亜樹の為につくる。夕飯を食べ終わるまでは、この大義名分が故に響子が一番されたくない質問は亜樹の口からは出ないだろう。

でも、きっと、、、時間を稼いだところで聞かれてしまう。夕飯づくりに集中している様を演じながら、響子の頭の半分以上はその時のことを考えていた。


「日下部君、そんなに見られていると失敗しそう。」

「いいじゃん、その時用の原因作っとけば。うそうそ、響子料理はおいしいから、失敗なんてないよ。」

「ううん、そんなに見られると緊張するから。それに、そんなプレッシャーまでかけられたら、」

「気にしなければいいのに。」

「無理、気になるよ。」

そう、とても気になる。響子の一連の行動を見透かした上で亜樹が観察しているのではないかと。

(あんなメールするんじゃなかった…)

次に亜樹の顔を見る時、響子は真っ直ぐ目を見ることが出来るか不安だった。



亜樹の目の前で、響子が亜樹の為に料理を作る。ついでだからつくる訳でもなく、好きなものをリサーチした上で。時折、亜樹が見ていることに可愛らしい抗議の声をあげながら。

もっと意識すればいい。気付けばそうされないことの方が怖くなるくらい。

そして…理解すればいい。どれだけ亜樹が響子を理解しているか。


「響子、御厨さんと何かあった?」

「え、ゴメン。今、なんて?」

「御厨さんと何かあった?何話したの?」

…うん、色々。」

「色々?」

「うん。」

「どんなこと、」

「えっと、わたしもまだ上手くまとめられないことを話して、ただ聞いてもらってた。」

「それだけ?一晩かけて。」

「うん。」

「御厨さん家って広い?」

「前の日下部君とこよりは広いかな。」

「じゃあ、響子がすぐに転がり込めるくらい?」

「それは無理じゃないかな。ここみたいに独立した部屋が二つあるわけじゃないから。」

「そっか、それじゃ、昨日はどうやって寝た?」

「御厨さんの部屋の他に…リビングダイニングのスペースがあるから、」

「へえ、そう。」

響子の話し方、質問に対する間、話そのものから亜樹はいとも容易く知りたい情報が見えてしまった。雅徳はおそらく響子に一緒に住むことを提案したに違いない。けれど、今の振り分け式の方がいいとか、なんらかの理由で響子は断ったようだ。しかし一晩話を聞いてもらうには、リビングと部屋は離れすぎているだろう。一人暮らしの一部屋の中に普通ベッドが二つ以上あるとも考えづらい。


でも、見えないものもある。響子の今思っていることは何なんだろうか。

知りたい。

急がば回れ、急いては事を仕損じる、それとも先んずれば人を制す、善は急げなのか、、、



意図的にそうしているのだろう、食事中の会話は食べ物のことだったり、服のことだったり。

「日下部君はアイロンのきいた白って感じだった。」

「そりゃあ高校の時は白のワイシャツだからだろ、毎日が。」

「うん、そうだね。この間のだらっとした格好には少し驚いたもの。ついでに今日も。日下部君は自分を毎日つくりあげているのね。高校の時も?」

「今は、そりゃこのままじゃ会社行けないからね。高校のときはどうだったかな。まず、進学校だから雰囲気に飲まれて勉強してたんじゃない。だから、どうなるか分からない先の為に何の役に立つのか分からない勉強ができてたのかもな。自分をつくっていたかも含めて、あんまり覚えていないな。なのに、響子のことだけはちゃんと覚えている。響子と話すのが好きだった。響子と話しているときの俺が自分に一番素直になれている俺だったと思う。で、ある日分かったんだ、響子が好きだから話していて楽しいし、好きになった人に自分を知ってもらいたいから本当の自分であろうとするんだって。」

「ありがとう…。」

「響子は?勉強がどうだったかなんてちゃんと覚えてる?」

「ううん、わたしもそれよりは色々な行事だったり、友達のことだったり、…日下部君のことだったり、」

「あの頃はいいよな、お互いに好きだから、それをなんとなく表す為に挨拶したり、話しかけたり、表情や態度で示したり。」

「そうだね。」

「でも、どうして今はそれがこんなに難しいんだろ。表現方法だって言葉だって、あの頃よりは知っているってのに。」

「あ、デザート、混ぜて冷やすだけのやつだけど、持ってくるね。ついでにコーヒーいれるからちょっと待ってて。」

やはり避けている。

避ける理由は?『先んずれば人を制する』の人が意味する人物があの人である限り、亜樹が取るべき道は…。例え言いたくないことを言わなくていけないとしても、、、心を決めるべきだと思った。



「こういうの好き?」

「うん。これだとボールでまとめて作れるでしょ。暑い夏にはよく作っていたの。」

「じゃあ、今度、こういうフルーツゼリー系のケーキ買ってくるよ。」

「そんな気を使わないで。」

「気は使ってない。ただ響子のためにそうしたいだけ。それだけ。それと、」

「何?日下部君が歯切れが悪いと何か不思議。」

「話したくないことだからね。出来れば。でも、事実を伝えるためには、隠せないこともある。」

「何?悪いこと?」

悪いこと、、、そんなものは既にこの数ヶ月でいくらでも通り過ぎた。それでも響子は悪いことなのか聞いてくるとは。結局、亜樹の口から出る言葉、そして亜樹にまとわりついていることは悪いことへ向かう物事ばかりに思えているのだろうか。


「響子の力になりたい。だから言うよ。響子が今度配属される秘書課には以前付き合っていた子がいる。それととんでもないことだけど、体の関係だったら他にも。」

「うん。彼女のことは聞いたことがある。…他の人のことは知らなかったけど。」

「俺、秘書課の人間関係って言うか、派閥みたいなのは何となく知っているから、今後知りたいことがあったら聞いて。先に言っておくと、混沌とした世界だと思う。」

「混沌とした?全く想像がつかないよ、そう言われても。わたしが知っている秘書さんは前の会社の人だけだし。」

「今の会社は秘書課だ。課長も主任もいれば、その上にそこを統括する経営戦略室まである。今年の株主総会はもう終わっているけど、総会対策を主幹で行っているのが戦略室なんだから、受付やら当日の対応の仕事は勿論秘書課におりてくる。何より次期社長のイスをめぐっては、派閥間のごたごただって。それを反映するように秘書課の個人レベルでのゴタゴタもあるそうだから、」

「大きな会社には色々あるんだね。きっと最初はわたしの頭の中が混沌としそうね。」

「そう暢気に構えてられればいいけど。でも、覚えておいて、俺としては言いたくないことを言ってまで、響子の力になろうと思っていることを。」

「うん、ありがとう。」

雅徳には出来ないことだろう、秘書課の女子社員間の抗争やら何やらを教えてあげることは。




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