楽園のとなり
楽園のとなり
39
「起きれる?」
マグカップを持った雅徳が響子を覗き込む。
「…はい、」
「どっかで何か食べてから、駅まで送っていこう。」
「あの、」
「何?」
「わたし、昨日の夜もさっきもどうかしちゃったみたいで、」
「どうもしてないよ。」
「だけど、そう思わないと、」
「本能、響子の奥底に眠る。それだけだ。」
「本能?」
「俺は眠っている本能を起こした。だから響子が反応した。」
恋愛経験の差、それとももっと絶対的な年齢の差なのだろうか。響子は雅徳に自分の中を、否、自分自身も知らない部分を見られてしまったのだと気付いた。
会社のそばの喫茶店もそうだが、雅徳は美味しいコーヒーの店をよく知っている。この日も昼食に連れてきてくれた店は、本当に美味しいコーヒーを提供してくれた。
「これからどうしたい?」
「えっと、この後ですか?」
先程雅徳は昼食を取ったら駅まで送ってくれると言っていたと思いながら響子は聞き返した。
「そう、長い意味でのこれから。シロは家猫だから、誰にバレるわけでもない。勿論行く行くはペット可の場所へ移るつもりだが。それまでの間は今のところで、」
「待って下さい。わたし、あの家から出たら一人暮らしを考えています。この間お話ししたように、日下部君とあんなことがあったから、思考能力が落ちていて、その上、誰かにつけられているようなことがあったり、急にそれまで何とも思っていなかった治安が気になったり、、、妊娠に対する不安があったりで、、、でも、今度は大丈夫です。状況に応じて、わたしが選べる最善の選択をします。日下部君ともきちんとした形で友達に戻りたいし。何よりあそこを出て、わたしが御厨さんと暮らすとなると彼も心中穏やかではいられないと思うんです。仕事も含めて色んなことが落ち着いたら引っ越します。」
「そうか。その意思は固いのか?」
「はい。しっかりと自分の足を地につけないと。本音を漏らすと、御厨さんのさっきの言葉の続きは魅力的です。でも、そうするとどんどん甘えて弱くなってしまいそうで、、、だから今は、まず一人暮らし再開に向けて、抱えている問題を一つ一つクリアにします。」
「俺も響子とは一緒に住んでみたい。出来ればその時点を境目にそれからずっと。」
「あ…、」
「その時はこんな回りくどい言い方はしないから。でも、俺がどういう気持ちで響子を好きかだけは理解しておいて。その上で、明日の昼飯、一緒にどう?」
「はい。あの喫茶店がいいです。とても落ち着くので。」
「じゃあ明日はそれを楽しみに会社へ行くよ。」
そう言って笑顔を見せる雅徳に、響子は自分の選択の正しさを感じた。
敷金、礼金、引っ越し代。夏のボーナスと月々の給料からの余剰金で12月にはなんとかなりそうな気がする。ちょっと苦しくなったとしても冬のボーナスでカバーできるだろうし。
ただしこの計算は妊娠していないことが大前提だ。春、あの時から生理の周期が狂ってしまったことが正直いたい。けれど、今までの亜樹とのことを考えてみると、どうしてか妊娠はしていないように思える。今までだって距離は近かったのに、結局遠いのだから。体が近づいても、心の距離は遠い。もしかしたら心の距離もそう遠くないかもしれないけれど、間に色々なものが入ってしまう。
響子はそんなことを思いながら携帯を手にし、極力明るい声で話し始めた。
「日下部君、今、どこ?」
『家だけど、』
「シロはいい子にしている?」
『メシもちゃんと食ってるし、朝、しっかり大きいのしてた。』
「ありがとう。今日、夜、出かける?」
『いや』
「じゃあ、シロのご飯とうんち回収のお礼を兼ねてちょっと張り込んだ夕飯を作るね。暑いなか申し訳ないんだけど、30分後くらいに駅前のスーパーに来れる?」
『ん、無精髭生えていてもいい?』
「勿論。急なお願いをしているのはわたしだもの。」
『じゃあ、30分後くらいに。』
メールですら亜樹の質問や連絡に対する返信がようやく来る程度だったのに、いきなりなった響子用の着信音に正直驚いた。そして機械から漏れる明るく楽しそうな声にも。携帯を通している分、本人はもっと明るい声で話しているということだろう。
それは雅徳との一晩が楽しかったということだろうか?
じっとしているとネガティブな考えに支配されてしまいそうだった。その状況から早々に逃げ出すため、亜樹は冷たい水で顔を洗い、着替えをすませ家を出た。
30分もかからずスーパーに着いたというのに、既に響子はそににいた。服は昨日と同じなのに何故か昨日とは違う響子。そう、色香が加わったのが見て取れる…。
「何か新鮮。」
「何が?」
「引っ越し以来だなと思って。響子と一緒に外にいるって。」
「言われてみれば、そうだね。」
「で、どうしたの。荷物持ちか何か?」
「違うよ。大人になった日下部君の食べ物の好みを教えて。あの頃は本人に聞くなんて出来なかったけど、今はこうして聞けるから。」
「あ、そういうこと。」
「何か変?」
「いや。うれしい、かな。」
亜樹は自分でも顔が火照るのが分かった。スーパーの冷たい空気のせいで、きっと顔が赤くなっているのは目立ってしまっているだろう。そしてその赤みは響子にも伝染したようだ。
「そんな照れられると、わたしまで恥ずかしくなる。」
「ゴメン。」
『今この状況であの頃に戻れたらいいのに…』亜樹はゴメンの後の本当に言いたいことを飲み込み、響子に好きな食べ物を話し出した。
食材を取る手、見る目。そして亜樹に振り返っては尋ねる口。亜樹が求めているのは、響子と過ごすこんな一コマがある日常なのかもしれない。
「日下部君、野菜は?」
「野菜?そうだな、コーンの缶詰。」
「それじゃあ子供だよ。」
「でも、好きだから。」
「葉っぱがある野菜は?」
「特には、」
「じゃあ、定番だけど、ほうれん草とコーンとベーコンで炒めようっか。」
「え、俺の好きなものだけじゃないの?」
「それじゃ、栄養偏っちゃうもの。」
この他愛ない会話がいいと亜樹は思った。