雇われ女優の久我山さん

 

     

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月日は自分の意思で制さないとこんなにもずるずると流れてしまうんだと、今更ながら気が付いた。


だって信濃さんは優しいし、なんとなくだけど愛されている気がしている。それは言葉だけでなく態度からも。


だけど、こうとまでわたしが思えるようにしている信濃さんは名優で、急にあるとき冷徹にわたしとの彼女契約を打ち切るのかも。


それともミキさんとの関係を清算した?


ううん、それはない。だって、決して二泊三日にならないところが、ミキさんの存在を示唆している。一週間の7回ある夜のうち、1回がわたしに割り当てられていると思うと切ない。だけど、それに甘んじている自分も自分だ。本当はミキさんのことを知っていると言ってやりたい。だけど、信濃さんとのセックスは今までの誰としたものよりも甘美で、体だけでなく正常な判断力も溶けてしまって、結局言えないでいる。


ベッドの中では何度となく『愛している』という言葉を繰り返され、あの目で見つめられればこうなってしまうのも致し方ない。


大人になりきって考えてみれば、週末をベッドの上でも外出先でも楽しく過ごすには申し分ない人。むしろお得な人。一緒にいるときはいつも心から満たされるし。その反動は大きいけど。だからそうならない為に、もっと信濃さんが欲しい。

そう思う反面、この関係を終わらせないといけないと警鐘を鳴らす自分がいる。もうこれ以上信濃さんという存在に貪欲になって引き返せなくなる前に。目を逸らし続けてはいけない。


今でも十分遅いけど…


「厚美、どうかした?眉間に皺よせて。会社にいるときみたいだな。」

「あ、うん、」

「歯切れ悪いなぁ。何か話したいって顔してるけど。」

「そうかな…」

「ていうか、俺達付き合い始めて1年以上経つけど厚美って不意に分からなくなる。俺に何を求めているかとか。それどころか、こんな関係なのに何か繋がりが、どこかで切れている気がしてならない。」

こんな関係…。そう、だからちゃんと弁えているつもり。


「わたしはどう答えればいい?」

さすがにこの質問には台本が欲しい。

「それって…やっぱり厚美の中に何かリミッターがあるってことだよな?」

「ゴメン、信濃さんの言っていることがうまく理解できない。」

だってリミッターは必要でしょ。彼女のフリなんだから、本当に好きにならないように。そして、わたしの心の中に常にあるリミッターは…ミキさん。


もしもミキさんの存在を知らなかったらどうなっていたんだろ。それはそれで馬鹿みたいだったろうな、一人でうかれて。神様も今までの恵まれない男関係を哀れんで、今回はこんな計らいをしてくれたんだ。だけど、それなら、最初からこの人をわたしに近づけて欲しくはなかった。


「厚美は何かを躊躇っている。それが何なのか、どうしてなのか、俺は知りたい。その躊躇いが俺達の繋がりをどこかで途絶えさせているから。」

「躊躇い…、それは、怖いから、だから、」

「怖い?何が。何を怖がっているんだよ。」

「それは、」

全てが終わる。この名前を出せば。これは、最強の切り札であり、破壊への一枚。


「もう彼女のフリするのに疲れた。」

「彼女のフリ?」

「そう。彼女のフリなのに、セックスまでしてて、なんだか自分がどうしようもないって思えて、だから怖くなったの。」

「なんだよ、それ。」

「言葉の通り。信濃さんの平和な毎日のために、渡来さんの勘違いをそのままにしただけでしょ、わたし達の繋がりは。なのに、わたしってば、馬鹿だから、雰囲気に流されて…」

「なあ、いつもあれだけ言葉にしていたのに、どうしてそうなるんだよ。」

「…、」

出来れば、この名前は出したくなかった。だけど、もう他に出せる言葉がない。


「ミキさんの為でしょ、わたしが彼女の振りをしなきゃいけないのは。それってもうイヤ。」

切ってしまった、最後のカードを。


「ミキ、って、何で…、あのミキだよな?」

信濃さんが驚いているのが良く分かる。そうだよね、まさかの名前だもん、わたしの口から飛び出したのは。第一、信濃さんから一度もわたしの前で出したことの無い名前を知っていることも不思議だろう。


まるで釘を刺すかのように、わたしと信濃さんがこの部屋で一夜を過ごすことが決まったときにこっそり聞こえてしまった名前。たった一度聞こえただけなのに、どうしてかわたしの意識下に植え付けられてしまった響き。そして囚われ続けた。


なのに、目の前の信濃さんは動じるどころか、優しい笑みを見せる。

大した俳優さんだわ、これは。こんな時にも、大人の笑みを見せてる上に落ち着き払っているなんて。わたしの出した切り札は、これじゃあ全然その役を成していない。


「ミキのことは人事ファイルか何かで見たのか?」

「まさか、いくら人事部に居るからってそんなものを勝手にはみない。」

「じゃあ、どうして知ってた?」

ん、人事ファイルに記載されている?じゃあ、もしかしてミキさんって法律的には奥さん?あ、でも、それじゃあ渡来さんがしたことってチンプンカンプンだし…。


一体全体どうなってるの?



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