雇われ女優の久我山さん

 

     

9 



「雨が降った日、信濃さんがミキさんに電話してたのがたまたま聞こえた。」

「雨が降った日?」

「そう、信濃さんが初めてここに来た時、ミキさんって人に電話して雨が降ってるから友達の所に泊まるって言ってた。それにこの埋め合わせは今度するって。わたしだって、一応この年まで女をやってきたわけだから、そういう言葉の意味くらい分かるよ。その人とはどういう関係かって。」

「ああ、あのときの…」

そう言いながら一人納得する信濃さん。それって全てを肯定しているってことでしょう。ついでに、その表情ったら憎らしくなるほど良い顔だ。


わたしはと言えば、ムスッとしてしまったかもしれない。だけどもう限界だったんだからしょうがないと思う。むしろ今まで良くやったと、自分にご褒美をあげたい。



しばしの沈黙の後、その重苦しい空気を破ったのは信濃さん。

「今日、うち来ない?」

「は?」

「だから、俺の家。」

「でも、」

わざわざミキさんがいるところなんて…、行きたくない。


「ミキがいるかも知れないから、会わせてやるよ。本当は別に行きたいところがあったんだけど、こっちの方が先だな。」

信濃さんには『行かない』という選択肢が存在しないようで、結局わたしは腹を決め、ぶつぶつ言いながら支度をした。


修羅場。…これって、どんな場所だろう?楽しくないのは良く分かる。そもそも、どうしてそんな場を信濃さんは自ら作ろうとするんだか。そこで、わたしとミキさんは何をどう話すことになるんだろう…

腹を決めたとは言え、これから起こるであろう初めての経験に心臓の音も呼吸も速くなる。



信濃さんの家は閑静な住宅街にあった。本当に家。わたしはてっきりマンションとかアパートを想像していたのに。門には信濃と書かれた表札。まあ、信濃さんちなんだから、信濃って言う表札がでていて何の不思議もないけど。

でも、信濃さんの歳でこんなところに一軒家を持っているなんて…。もしかして、ミキさんは資産家の娘で結婚することでこの家をもらったとか?そこに愛がないから、愛人契約を結ぼうとか?う〜ん、この現実的でない発想はともかくとして、やっぱり何かが変。


「そんな怪訝な顔をすんなって。眉間に皺よる。」

信濃さんがわたしの顔を覗き込みながら、ポケットから鍵を出そうとしたときだった、中から犬が吠えたのは。


「カレン、待ってろ、今開けるから。」

「わん、わん、わうーーん♪」

「カレン?」

「そう、うちの犬。」

確かに、見るからに犬くらい飼っていそうな家。


ついでに信濃さんが扉を開けると、ちょうどそこに年配の女性がいた。ミキさんってかなり年上?

「あら、涼、帰ってきたの?あら!そのお嬢さんは?」

「会社の同僚で、…俺の彼女。」

「あら!」


その年配の女性はその一言を最後に発すると、パタパタと奥へ小走りに向かっていった。それから、次にやはり年配の男性を連れてきて、耳元でぼそぼそと囁く。今度はその囁きを聞いた男性が目を輝かす。

「こんなところでなんですから、どうぞ中へ。お母さん、何かお茶菓子でも、」

男性は女性に向かってお母さんと呼びかけた。それって…、そうだよね、年の頃にしたら丁度だ。この二人は信濃さんのご両親だな、きっと。イヤ、確実に。だって、ここは信濃家なんだから。


ってことは、ミキさんはご両親とも同居していることになる。それって公然とかそう言うレベルを突き抜けているはず。

わたしの気なんか知る由もない信濃さんはご両親に向かってどうどうと質問した。

「ミキは?」

「今日は夜勤明けだからもう帰ってきてるけど。」

信濃さんとお母さんの会話から、ミキさんは夜勤のある仕事をしているのが分かる。ついでに、間違えなくここにいるのも…。


「そうだ、親父もいるからもう一度。こちら俺の彼女の久我山厚美さん。厚美、うちの親父とお袋。で、そいつがカレン。」

「初めまして、久我山厚美です。いきなりお邪魔してしまいましてすみません。」

今まで聞かなかったわたしもわたしだけど、ご両親と一緒に住んでいるなら教えてくれればいいのに。そうすれば、何か手土産買ってこれたのにな。手土産もなく、いきなり来るなんて心象悪いじゃない。あれ、でも、悪いもなにも…、ん?、信濃さん、わたしを彼女って紹介してるよね、さっきから。


「厚美、あがれよ。」

「あ、うん。」

なんだか訳が分からないけど、突っ立っててもしょうがないから信濃さんに言われるままにお邪魔した。


リビングに通されると、少しして紅茶とクッキーが信濃さんのお母さんにより運ばれてきた。

「あら、ミキはお風呂かしら?」

「じゃあ、いきなり若いお嬢さんがいるところに普段のまま来たら大変だから、ちょっと声を掛けておかないとな。」

信濃さんのお父さんはそう言って立ち上がった。


ミキさん、お風呂。お父さん、男。ん?

当たり障りのない会話の後、お父さんともう一人の人がやってきた。ああ、そう言えば信濃さんには弟が居たっけ?

その弟さんは、驚くくらい信濃さんに似ていた。似ているというより、もう一人信濃さんがいると言ったほうがいいくらい。


「へえ、こちらが涼の彼女?、ようやく連れてきたんだ。」

弟さんは信濃さんのことをご両親同様『涼』と呼んだ。年、近いのかな?

ちょっと催促するように信濃さんの方を見ると、顔がなんだか今にも吹き出しそう。何?


「厚美、俺の弟。」

「初めまして、久我山厚美と申します。突然お邪魔しまして申し訳ございません。」

「厚美ちゃんて言うんだ。こんな美人ならいつでも歓迎だよ。あ、弟って言っても涼と俺は年の差はないんだ。双子だからね。」

ああ、それでこんなにそっくりなんだ。そんなことをぼーっと思っていると、信濃さんが弟さんに向かってわたしの思考がストップする発言をした。


「ミキ、夜勤明けだろ。寝るんだったら上行っていいから。別にたまたま厚美を連れてきただけだし。」

恐る恐るもう一度信濃さんへ顔を向けると、くっくと笑いを堪えきれない様子で言葉を続けた。

「あ、遅くなったけど、これが俺の双子の弟の幹郎(ミキオ)。俺達普段、ミキとリョウって言ってるけど。」


臆病で、聞きたいことをずっと聞かなかったわたしは大きな勘違いをしていたらしい。そして、その勘違いの壁はもの凄い音を立て、崩壊した。



back   index   next