絶対条件

 

10



「お気づきになられて良かった。皆さんに伝えてくるので、ちょっと待っていて下さいね。」

父の嘘だらけの言葉を聞いていたのは覚えていたが、途中から全く記憶がない。そしてここは自分の部屋…。


「オレンジジュースがあったので、いただいてきました。」

「わたしは、」

「お話の途中でおそらく貧血を起こしたようです。お運びになったのは隼人様です。その…、体に跡があるので、服はわたしが取り替えました。お母様にはうまく誤摩化してありますので、ご安心下さい。」

「母は何も気にしていないから、わたしのことは。むしろリカさんがやってくれて喜んでいたかも。」

耶恵の発言に何か思い当たる節があるようで、リカはそれ以上は何も言わなかった。


「そう言えば、弟さんは二人ともお優しいんですね。とても心配していましたよ。でも二人とも耶恵様の寝顔が穏やかなのを確認すると、ほっとしたよううでお部屋を出ていきました。二人ともわたしに『宜しくお願いします。』といいながら。」

「あ、リカさん、今何時ですか?それと隼人さんは?」

「今夜はわたしは耶恵様のお部屋にお邪魔させていただくことにしましたので、時間は気になさらないで下さい。隼人様はもうお帰りになられましたが、明朝早めに迎えい来て下さることになっておりますので、何か御用がありましたら明日の朝に。」

「ううん、用事とかじゃなくて、わたしのせいでごめんなさい。そもそもわたしがお花を選んだりするのをお願いしちゃったから…。予定とか大丈夫ですか?週末なのに…。」

「お気になさらずに。それより、何も考えずゆっくりお休み下さい。」


耶恵には悪いが、リカにとってはこれは絶好の機会だった。本当は服選びの前にクローゼットを見せて欲しいと言う予定だったのだから。

リカはクローゼットの中を見渡しながら、耶恵の人となりを考えた。悪いという認識は勿論あるが、それでも机の引き出し、チェストの引き出しも全てチェックさせてもらった。神田家の娘だと言うのに、高価な貴金属も高級なブランドのかばんも持っていない。まるで明日急にここから出ることになっても、一つを除いては何も持っていく必要はないようだった。

そう、一つを除いて…


リカが耶恵の持ち物を物色したのは、買い物前に何を持っているのか調べたいだけではなかった。提出用の証拠の為に、心を痛めながらも写真に持ち物と部屋そのものを収めていった。この写真から尚哉が一体何を読み取ろうとしているのか、不思議に思いながらも。



退職願を提出するのが、こんなにまでも気が重いものだとは思いもしなかった。父親が既に手をまわしているからとは言え、否、既に手をまわしているからこそ気が重いのだろう。

会社も耶恵に期待などしていなかったのは重々承知している。とは言え、やはり悔しさに似た感情が溢れてしまうのだ。出せばすぐに受理される退職願。引き止められることなど絶対にない。人事部長から出てくる言葉は、耶恵への祝福の言葉かもしれないが、本当は父へ向けた言葉…

この世に生まれ、物心がついて一体何パーセントが自分の人生だったと言えるのか。

決定権など何もない他人の人生のようなのに、耶恵の予想は簡単に当たってしまう。

人事部長は耶恵の顔を見ただけで『お父様から聞いているよ。おめでとう。形式だから書類を預かるよ。』と言った。朝礼では、耶恵の最終出社日など、人事の誰にも言ってはいなかったのに上司からちゃんとアナウンスがなされた。

線路は田辺尚哉に向かい延び、耶恵は寸分の狂いもなくその上を滑るように進みだしたということだ。


「もう驚きって言うか、何ていうか、」

「実はわたしも。土曜に決まっちゃって…」

「その言い方って、望んでないってこと?」

「うーん、ほら、わたし、恋もまともにしたことないから、これでいいのかな、って感じで。」

「ねえ、耶恵ってそれでいいの?」

克実にも言われたこと。何より心の片隅で耶恵自身がいつも自問自答していたこと。

それを友達にまで言われてしまうとは。やはり耶恵の人生は誰の目から見ても、そんな風に見えているということなんだろう。

「いいも悪いも、もう引き返せないよ。退職願も出しちゃったし。」

目の前の友人が耶恵の言葉に呆れているのは良く分かる。けれど、事実など話しようがない。

耶恵はこれから心の中に深い闇を一人で抱えながら生きて行かなくてはいけないということだ。今までのように分かってくれる兄弟もいない環境で、これから。



家具、衣類、貴金属、日常の生活用品と事細かに隼人とリカはそろえていった。この場に耶恵がいる必要などないように思えるほど。もっと言ってしまうと、日曜の買い物自体不要に思える。

「夕飯は何がいいですか?」

「もんじゃ焼き、食べたい、です。そういうのでも、いいですか?」

「お好きなように。どこか指定のお店はありますか?」

「いえ、特には。」

耶恵の返事を確認すると隼人は素早く店を検索し、今から向かう旨連絡し予約を入れた。

きれいな顔の隼人とリカには鉄板は似合わない、と思ったところで席についてしまったのだ、しょうがない。

「お二人とも、こういうところ平気でした?」

「はい、わたしは好きです。」

言い方は固いものの、リカの答えに耶恵は少し気持ちが軽くなった。


「わたし、お好み焼きとかもんじゃって弟達としか来たことがないんです。会社の部署では行くところ決まってるし、女友達とはお安めのフレンチだったり、イタリアンで。ほんとはすごく好きなんですけどね、粉もの。お二人は、お嫌いでした?」

弾むかどうかは分からないが、会話は投げてみなければどうにもならない。

「いえ、そんなころはございません。」

「はい、わたしも。むしろ好きです。けれどお店に来たのは学生の時以来です。」

固い会話ながらも、質問すれば二人は答えてくれた。きっと、内容が大したものではないからだろうが。けれど耶恵はそれでもいいと思っていた。話すことが重要なのだから。


「明日は一時に伺います。」

「あ、もう買い物は今日で全部終わったんじゃないですか?」

「明日はウエディングドレスを選んでいただきます。尚哉様は残念ながらご都合がつきませんが、私共は本日同様お供いたします。」

「既に耶恵様に似合いそうなデザインとお色は選んでありますので。」

「…はい。」

ようやく相手から話しだしてくれたと思えば、やはり事務的な連絡だった。

「明日決めなくてはいけないですか?」

「出来れば、そうしていただくと助かります。それに合わせて尚哉様のタキシードや当日のブーケの手配に移りますので。」

「何でも、いいですよ。明日はリカさんが選んで下さい。わたしがいないほうが早くていいかも。ドレスを選ぶだけなら、わたしは明日遠慮してもいいですか?」

耶恵は言葉を選びながらも、今日なんとなく心の中に燻っていたことを二人に切り出した。

二人は分かっている。耶恵が何でも受け入れることを。今日の買い物はそれが分かっているから、二人はどんどん決めていったに違いない。


言葉が止まった。不意に訪れた、もしくは意図された沈黙等ではなく、言葉が止まってしまったのだ。

「わたし、楽しかったです。耶恵様のドレスだって分かっていましたけれど、選ぶの楽しかったです。耶恵様も楽しんで下さいませんか?もしお嫌でしたら、最初から選び直しましょう。今日買ったものだって。」

「あ、いえ、そういう意味じゃないんです。ただ、もう、ほんとは、こんな結婚、どうでも、」

「耶恵様、そこから先の言葉は胸にしまっていただけませんか。」

隼人の話方は耶恵が初めて聞く感情がこもったものだった。

「でも、もう消えてなくなってしまいたい…」

「そんなことおっしゃらないで下さい。あなたがそんなでしたら、私達二人はとっくに消えていますよ。」

絶対的に服従している二人にも何かがあるのは分かる。けれど、どうして、どうしたら消えずにそうしていられるのだろうか。


「耶恵様、強くなることです。」

「…どうやって、ですか?」

「それを私から言うことはできません。そして、強くなれる理由を他人に知られてはいけません。諸刃の剣になりかねない。これは覚えておいたほうがいい。」

隼人の話方が何故か変わった。話し始めは確かにアドバイス口調だったが、語尾はまるで何か言い聞かせるような、それでいて忠告のような。


「明日は11時に迎えに行きます。」

「あ、でも、隼人さんが先程1時って、」

「ランチでもしませんか?その後、隼人様とはサロンで合流しましょう。」

「リカ、それは、」

「大丈夫です。耶恵様は理解して下さっています。その証拠に余計なことは何も質問なさっていません、今まで。」

『余計なこと』やはりそういうことなんだと耶恵は理解した。そしてリカがわざとその言葉を使ったことも。こんな繋がりなのに、耶恵を多少は信用しているようだ。


リカの発言に対し何を言うでもなく、隼人はただ「どこかでコーヒーでも飲んでから帰りましょう」と言うだけだった。




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