絶対条件
絶対条件
9
熱めのシャワーは体と頭をすっきりしてくれた。けれど、頭がすっきりしてしまった分、嫌でも妊娠という言葉が浮かんでしまう。
怖かった。そして想像が出来ない。あの田辺尚哉という人物の子供を自分の子宮の中に宿すなど。けれど、もうどうにも出来ないし、どうにもならない。あとは2週間後くらいから月のものが始まってくれることを祈る以外には。
「あの、」
多少はすっきりした頭でリカに質問を投げかけようとすると、彼女は笑みを浮かべながら『お食事の支度は調っています。』と言った。あまり質問はされたくないということだろう。
サンドイッチにサラダとフルーツ。紅茶はポットサービス。その量は耶恵には十分過ぎるように見える。質問でなくとも、リカと少し普通に話したいと考えた耶恵には好都合に思えた。
「リカさん、わたしには多いから、一緒に食べませんか?」
「ですが、」
「わたし、どうやら尚哉さんと結婚するみたいだけど、普通の家の出なんです。だから、こんな高級ホテルのいかにも高そうなお皿にのっている、間違えなく高いであろう食事を残すのは忍びなくって。待ってて、カップはティーセットのところから持ってくるから。フォークはサラダとフルーツにそれぞれついているから大丈夫ね。リカさんの好きな大きさの方を使ってね。」
「…耶恵様、」
様はいらない。リカと耶恵はそんな立場に隔たりなどないのだから。けれど既に大枠を理解できてしまった以上、その敬称はしょうがないということが耶恵にも分かる。だからこそ上っ面の言葉ではなくて、誠心誠意リカに接しようと耶恵は思った。
「座って。リカさん、好き嫌いは?」
「特には。」
「じゃ、どんどん食べてね。紅茶にミルクいれてもいい?」
「あ、自分でいれますので。」
「わたしのにもいれるからついでよ。気にしないで。」
「…」
「わたしばっかこんなの食べたら弟達怒りそう。あ、わたしには弟が二人いるの。帰りに下でケーキでも買っていこうかな。」
リカが話したがっていないのは容易く見て取れた。だから耶恵は弟の話だったり、会社の話をリカの表情を見ながら続けていった。
「あ、ホントは女性に聞いちゃいけないことだけど、やっぱり知っておきたいから。わたしは24歳だけど、リカさんは?」
「26歳です。」
「ありがとうございます。教えてくれて。」
恐らく…、いや残念ながら間違えなく、リカと耶恵はこれからそれなりに顔を合わせることになるだろう。それもあって耶恵は年齢くらいはいいだろうと質問したのだった。
軽い食事の後、髪型のセットとメイクをリカが手伝ってくれた。リカが髪型に朝と変わりないかを何度も耶恵に聞きながら。
「お待たせしました。」
「いや、丁度いい時間だ。」
リカと尚哉が会話を交わす。その傍らには勿論隼人。耶恵は一歩下がったところでその様子を眺めながら、つくづくきれいな三人だと思わずにはいられなかった。
「では、耶恵様、参りましょう。」
「あ、はい、」
三人をぽーっと眺めていた耶恵は、隼人から自分の名前を呼ばれようやく『今』に戻った。
「ではわたくしはこれで失礼いたします。」
「待って、リカさん、良ければ一緒に選んで。女性の目の方がいいから、こういうの。」
「そうだな、リカ。」
「はい、畏まりました。」
「隼人、ついでにリカも送ってやれ。」
「かしこまりました。それでは明日。」
三人になると耶恵はすかさず隼人に質問した。
「山科さんはおいくつですか?」
「33です。他にご質問は。」
「いえ、特に。」
聞きたいことは山ほどあるのに、きれいな顔で冷たい物言いをされると耶恵は何も言えなくなった。それから三人はホテル内のコンフェクショナリーショップ、花屋と立寄り目的のものを購入したのだった。必要なこと以外の会話は全くないまま。
ホテルの駐車場にとめてあった隼人の車も立派な外車だった。隼人は駐車場に着くと後部座席の扉を開き耶恵を座らせた。シートは気怠さが残る耶恵にとって魅力的な座り心地で、眠りに落ちるまで5分と必要ないように思える。けれど家までの時間は、隼人による今後のスケジュール説明にあてられた。
「月曜には退職願をご提出下さい。受理されないことはありません。ところで有給はどれくらい残っていますか?」
「20日はあると思います。」
「では提出した翌日からでも休めますね。まあ、それではいくら尚哉様と結婚する耶恵様とはいえ、些か問題でしょう。ポイントは有給消化ではございません。出社を最小限に留めていただくことです。ですので、二週間はご出社なさって後は有給消化といったところでしょう。そのことは本日これからお父様にもお伝えします。」
結婚まで二ヶ月あるというのに、仕事はすぐに辞めなくてはいけないらしい。
「それとお住まいですが、後ほどパンフレットをお渡ししますので明日の夕方までにはご検討下さい。どれも資産価値として十分です。後は耶恵様の好みです。」
「はい。」
「エステや習い事の予定は追ってお伝え致します。」
「習い事ですか?」
「はい。料理、茶道、英会話、中国語を予定しております。他にご希望がありましたらおっしゃって下さい。」
「あの、お料理は普通にできますが、」
「料理と茶道はあなたがこれから暮らす世界と同じレベルの方々が集う場です。ホームパーティのセッティングや人間関係を学んで下さい。英語はあなた自身習っておいて損はありません。」
「…はい。」
「来月には尚哉様のお母様、妹のいづる様とそれぞれお会いいただく機会を設ける予定です。これは予定が決まり次第お伝えします。」
隼人の話から、尚哉には母と妹がいるということが伺える。他の兄弟や父親に関してはどうなのか分からないが。耶恵の沈黙の意味を察したのか、隼人が言葉を続ける。
「お父様と他のご兄弟は結婚式当日に会う事になると思います。それと来週の土日は両日共に空けておいて下さい。家具や必要なものを購入に行きます。服もそれなりに必要になりますから、そう言ったようなものも一通り購入する予定です。生憎尚哉様にはご予定がありますので、わたくしとリカがお供いたします。」
「…はい。」
こうやって全てが決められていく、そして耶恵はそれを一つ一つ受け入れていく。確かに尚哉の選択は正しいと言わざるを得ない。耶恵は父に対するそれと同様『はい』とちゃんと受け入れているのだから。
神田家には何らかの形で既に連絡がなされていたようだった。耶恵が隼人達を連れ立って帰宅しても、父も母も驚く様子もなく笑顔だった。
「田辺から連絡があったかと思いますが、仕事の都合急遽わたくし共がお嬢様をお送りさせていただきました。柿沼さん、あれをご家族へ。」
「はい。」
元々きれいなリカが笑顔で大きな花束とホテルの焼き菓子の詰め合わせを耶恵の両親に手渡した。
「申し訳ございません。本来は田辺からというのが筋なのですが、取り急ぎお伝えしたく、実はお嬢様とのお話を正式に進めさせていただければと思いまして。」
その言葉に父の表情が微かに変わったのが耶恵には分かった。どう変化したのか、うまくは言えないが。
「耶恵を送っていただいたお礼にお茶でもと思っていたので、中へどうぞ。」
父が最初からそう思っていたのかどうかは計り知れないが、父にとって大切な話なのだから二人を招き入れるのは当然だろう。
それに対し、隼人もリカもそのきれいな顔にきっと心からではない笑みを浮かべお礼を言った。
会社で一つの駒として働いた経験がないに等しい母以外は皆それぞれを探るために簡単には割れない仮面を着けているのは言うまでもない。
『尚哉はわざと来なかった。』この考えはかなりの確率で正しいと耶恵は思った。
隼人は車の中で耶恵に話したような今後の予定を手短か、かつ明確に耶恵の両親に話した。
「何かご質問は?」
「感慨無量で申し訳ございませんが、今は何が分からないのかすら分からない状態です。お尋ねしたいことがありましたら、後日質問させていただきます。その際には、田辺様に、それとも、」
「先程お渡ししたわたくしの名刺にあるメールアドレスにお願いできますか?」
「承知いたしました。ではわたしはさっそく耶恵の会社の人事部長へ一報入れておきます。月曜には状況確認の為電話も致しますので、耶恵の退社に関しては問題ないでしょう。」
耶恵が口を開く必要などなく、尚哉が言う結婚という契約締結に向け全てが動きだす。こんなものなのだろうかという疑問が頭を擡げたところで、聞く相手もいなければ答えてくれる人もいない。今更だけど、現状を受け入れるだけ…
「親であるわたしが言うのも何ですが、耶恵はわたしが手塩に掛けて大切に育てたそれは可愛い娘なんです。その耶恵が、」
手塩に掛けて、大切に、それぞれどういう意味だろうか。耶恵は父に育てられたのではない。父によってどんな理不尽なことだろうと言われたことを何でも口ごたえ一つせずに受け入れるように作り上げられたのだ。今ここにいるのは、でっち上げられた偽物の耶恵。本当は耶恵はどこにいるのだろう。そんな取り留めのない考えが頭の中に渦巻いた時だった、何故かリカの耶恵を呼ぶ声だけが耳に入ってきた。