絶対条件

 

12


「こんなんで良かった?」

「うん。焼き鳥食べたかったから。」

大学生の克実と仕事の引き継ぎがメインの耶恵なのだから、夕方6時前に入った焼き鳥屋は空いていた。それもあってオーダーしたものも次から次へとやってくる。

この分なら食べ終わるのは7時前後…


「この後、どっかでゆっくり落ち着いて話をしたいんだけど、いい?」

「うん。そのつもりだった。」

「場所なんだけどさ、誰かに話を聞かれないところが、」

「うん、分かってる。ホテルでいい?」

「…うん。」

克実が言うところのホテルがどういう所を意味しているかは分かっている。そこにいくら弟とは言え二人きり、しかもその弟には何度か体の関係を迫られている。それなのに耶恵は了承した。何か起こってしまう確率が高いというのに…


「ここでいい?」

「うん。」

今日誘ったのは耶恵。けれど克実は要所要所で耶恵に逃げ道を与えるように意思の確認を何度かしてくれていた。

「入るけど、いい?」

そして部屋の前でもう一度。

「うん。」

どのみち一度はちゃんと話をしなければならない。それが”ここ”というだけ。


「へえ、こういうふうなんだ。」

「ホテルによっては色々な部屋があるけど。おとなしめな部屋はだいたいこんなじゃない。で、話って?」

「あ、うん、その、今までありがとう。あの家で。克実と伸哉がいなかったら、わたしやってけなかったと思う。家を出ても二人は大切な弟だし、何かあったら相談にのるからいつでも来て。」

「そんなことを言うためにわざわざこんなとこ来たわけ?」

「わかんない。馬鹿な姉だって笑ってくれていいけど、建前っていう壁がなくなったら、わたしはどうしたいんだろうと思って。」

「建前?」

「うん、神田っていう表札が掲げられている家から出て、克実と顔を合わせたら…いつもわたしの中にある兄弟っていう建前がなくなるでしょ。」

「俺は前も言ったように、姉だって分かっていても耶恵が好きだ。」

「話をはぐらかすようだけど、わたし、怖いの。田辺尚哉と結婚することが。もう引き返せないって思うことで、前に進まなければいけない状況に追い込んでいるのはわたし自身なのに。今まで、こんなわたしでも、克実がいたからやっていけた。結婚したら、克実はもう側にいないでしょ。どんなに怖くても…伸哉のことも好きよ。でも、伸哉と克実、それぞれに対する好きはちょっと違う…みたい。」

「それって、」

「ごめん。でもね、じゃあどういう好きって聞かれると、それはそれではっきり分からない。…だから、…してみよ、」

勇気を出して言ったのに、耶恵の放った最後の方の言葉は微かに聞き取れる程度の小さな声だった。

「何を?今までと同じこと、それとも…セックス?いや、愛し合う?」

「愛してくれるの?」

「愚問だよ。」

愛なのか、逃げ道なのか…。一線を超えれば分かるのかもしれない。どういう好きなのか。リスクが高いのは初めから分かっている。けれど、耶恵は知りたかった。自分の中に燻っている感情の正体を。

「愛して、教えて、克実の愛を。」


耶恵はシャワーを浴びながら頭の中を整理した。はっきり分かるのは、あのたった一日の出来事で体がセックスをいうものを覚えてしまったこと。

一度目、克実はとても優しく抱いてくれた。壊れ物を扱うかのように。けれども耶恵の心は激しいセックスを求めていた。尚哉のまるで罰を与えるようなセックスと同じような。

二度目、三度目は耶恵の心を汲み取るように、克実は激しく腰を打ちつけてきた。

説明はできない。でも二人の激しさはそれぞれ本質的に違うように思えた。克実は若さ、そして憤り。尚哉は…残酷さ、冷酷さ、何より、そこまで思って耶恵は頭の中の言葉を打ち消した。そんな馬鹿なはずはないと。


ハイリスク、ハイリターン。ここ最近の金融商品と同じだった。高いリスクを取ったのに、リターンは出なかった。セックスをしたのに、それも弟と。なのに肝心なことは分からないまま。克実に対する感情の正体は分からなかった。

それとも…知りたくないから、自分にまで気付かない振りをしているのだろうか。

更に頭の中を整理すればするほど、どこにも罪の意識がないことに驚く。実の弟としてしまったというのに。むしろその事実を思い返し、体が再び熱を帯びてしまうほどだ。

あの日の経験が全てを狂わせてしまっているのだろうか?いや、もしかするとこれが耶恵も知らなかった本当の自分の正体なのかもしれない。

田辺尚哉が耶恵のこんな一面も見抜いた上でターゲットに選んだとすれば…、全て当然に向かって進んでいるだけ。耶恵が克実と関係を持ったのだって…。


「入るね。」

耶恵は自分がその立場になって分かった。克実がノックをしない理由が。誰にも気付かれないように入るその先の理由が。

「驚いた?」

「多少。でも、こうやって来るような気がしていた、なんとなく。」

「ふうん、どうして?」

「どうして?それを耶恵が聞く?それは耶恵が出すべき答えだろ。」

「ねえ、ここに来た時点で答えは8割がた決まってると思わない?」

「それが答えなんだ。残り2割は?保険?それとも社会人としてのバッファ?…この場合は社会人じゃないか、結婚を控えている、もしくは血族というモラルへの逃げ道?俺にはそんな逃げ道必要ない。10割だから。」

真っ直ぐすぎる克実には、田辺尚哉と違う怖さがある。違う、克実を怖いと思うのは自分がズルいからだと耶恵は思った。

「うん。2割はきっとズルい大人の逃げ道用。ゴメン。しかもズルい大人は平気でもっとズルいことを言うよ、これから。わたし、克実は弟以上に好き。けど、それが恋愛で言うところの最上級かはやっぱり分からない。何より、今わたしが感じているこの気持ちに気付いたところで、全てを止めることも、何も出来ない。ただ、近くにいて欲しいの。」

「近く?」

「体も気持ちも、全てにおいて近くにいて欲しい。ズルいでしょ、都合のいいことばかり言って。」

「ズルくないよ、俺もその言葉につけ込もうとしているから。…じゃあ、側にいさせて、結婚しても。

「わたしと克実は天国へは行けないね。あ、もしも天国があったらの話だけど。それどころか、地獄からも追放されるかもしれないね。追放されたらどこへいくんだろ。」

「大丈夫、二人でなら。」

耶恵は天国にはもしもという実在性を疑う言葉を付けたのに、地獄には付けなかった。



「耶恵様、申し訳ございません、お待たせしてしまって。」

嘘偽りがないことで、少しでも良い関係を構築していきたいと望む耶恵は、今来たところなどという常套句を使わなかった。使ったところで、状況から見抜かれるだろうし。

「暇な立場のわたしが待つのは当然だから、気にしないで下さい。わたしの今の仕事は引き継ぎだけです、それも明日が最終出勤日ですから、ホントにもうすることなくて。こうして、街で人を眺めながらコーヒーを飲んでいるほうがまだ満たされます。」

耶恵は聞かなくてもリカの大変さを察していた。上司はあの田辺尚哉だ。日中は彼の元で仕事をこなし、その後も個人的な仕事をこうして行っている。忙しくないわけがない。


「夕飯はベジタリアン用のカフェなんですけど、いいですか?」

「じゃあリカさんてベジタリアンなの?」

「違います。でも、息を抜きたいときによく行くお店なんです。耶恵様には特別にお教え致します。」

胸に何かが刺さる。息を抜きたい…、そう言ったリカの顔は柔らかな笑顔なのに、耶恵の胸に刺さった何かは恐ろしい程鋭いものだった。特別に教えてくれるのは、耶恵こそそういう場所が必要になるからだろうか。それとも多少は心を許してくれているから教えてくれるのだろうか。後者であることを願いつつも、理由は避けようがなく前者。


「うわぁ、ホントに優しい照明の素敵なお店ですね。」

「味もとても優しくて美味しいんですよ。何よりヘルシーですし。」

「こういうお店とリカさんの雰囲気って案外合いますね。あ、案外っていうのは、ほら、リカさんてフランス料理って感じだから。」

「合っているかどうかは分かりませんが、私はここでこののんびりとした優しい時間を吸収しているにすぎません。むしろ耶恵様のほうがこの雰囲気にはぴったり合っていると思います。」

「ありがとうございます。リカさんにそう言ってもらえると何だか嬉しいです。ところで今日はどうしたんですか?」

「実はこれを預かって参りました。耶恵様は明日が最終出社となりますから、尚哉様がこれをと。」

「えーっと、これは?」

「退社なさる記念にと、尚哉様からの贈り物です。」

「買ったのはリカさんでしょ。」

その質問にややもすると見逃してしまいそうな程一瞬リカは困った表情を顔に浮かべたものの、きれいな笑みを浮かべて切り返した。

「ご提案されたのは尚哉様です。」

答えたくない質問をかわし、尚哉の配慮を耶恵に伝えるにはいいだろう。けれどあの田辺尚哉が、何の考えもなくこんなことをするはずがない。

「リカさん、わたしはこの尚哉さんの配慮に何かお返しをした方がいいのかしら。」

「必要ないと思います。」

「何故ですか?この色の箱に入ったものがどれだけ高価かはわたしでも知っています。それに尚哉さんのことだからとりわけ高価なものであることが予想できます。」

「マリッジブルー…」

「はい?今、なんて。」

「あ、すみません。本当に退職記念とこれから変わる環境に対してのご配慮なんです。」

「わたし、そんなに弱くないですよ。マリッジブルーを通り越して、何らかの方法で結婚を放棄したりはしませんよ。」

耶恵の言葉にリカが涼しげな口角を少し上げるだけの笑みを浮かべた。きっと耶恵の推察は正しい。だからこそリカの苦衷も察しなくては。耶恵の言葉、表情、態度をリカは尚哉に持ち帰らなくてはいけないのだろう。尚哉とてこのプレゼントに耶恵が手放しに喜ぶことがないのは分かっているはず。

「大切にします、実際の重みよりはるかに重いものをいただいてしまったのですから、と言っていたとでも伝えて下さい。笑いもせず、ちゃんと何かを理解していたようだと付け加えて。」

「…はい。耶恵様は尚哉様を理解なさっているのですね。」

「理解?リカさん、ここからは聞き流して下さい。恐れているというのが正解です。だから少しでも相手を知っておこうとする、理解というよりは、防衛本能だと思います。現時点でわたしはいつ彼から解放されるのか、全く検討がつかないのだから。結婚って、本当はどういうものなんでしょうね…」



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