絶対条件

 

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当然の事ながら、耶恵の質問とも呟きともとれる投げかけにリカの返事はなかった。

「耶恵様、中身をご覧になって下さい。自信があるんです、気に入っていただける。」

話を逸らしたいのと、見てもらいたいという気持ち、パーセンテージはどちらがどれくらいなんだろうか。残念ながらリカの表情からは読み取れない。けれど耶恵のスタンスは『リカを困らせない』なのだから、話題を変えざるえない。

箱の中身はシンプルながらやさしいラインを描き、美しい輝きを放つダイヤが何石か埋め込まれたリングだった。普段の耶恵なら気後れして選ばないだろうが、なかなか気付いてあげることができない心の深い部分では本当は欲しているデザイン。それはリカが言った通り、耶恵が必ず気に入るものだった。どうしてリカには耶恵の心の奥が分かったのだろうか。

誰にも見せた事がないような部分なのに。

「ありがとうございます。とても気に入りました。きれいなラインだし、ダイヤも丁度良い主張をしていて、本当に素敵。先日、用意していただいたものはどれも豪華すぎて…。でも、これなら普段でもつけていられそう。」

「是非、普段使いとしてご使用下さい。これからは、普段用の耶恵様らしいセンスが光るものも沢山身に付けて下さい。勿論お手伝いはいたします。耶恵様が耶恵様らしくあって、楽しく幸せそうな姿であることは、この結婚においてとても重要なことですから。」


本当の結婚がどういうものか。それは結婚をしたことがないリカにも分からないのだろう。母親がした結婚も、耶恵にはなんのヒントにもならない。けれど、この結婚においての定義はリカが言った通り。美しく人目を魅く指輪は、明日会社に付けていきべきなんだろ。きっと『田辺尚哉の幸せな婚約者』を演じる耶恵にとって素晴らしい小道具になってくれる。


「最終的にはお喜びになったと伝えてもいいですか?」

そんなことをどうしてわざわざリカは確認するのだろうか。

「リカさんのお好きなように。けれど尚哉さんにはわたしが喜ぼうと喜ぶまいと、どちらでもいいことだと思います。何より自分の立場をしっかりと再認識したという方が重要なことですから。」

驚くことに、耶恵の率直な物言いにリカははぐらかしも、言葉を濁すこともしなかった。

「そうですね。全てはそんなに誤差が生じない計算によって成り立っています。耶恵様、数学はお好きでしたか?数学って不思議ですよね。難しい問題は答えを導く為の理論が分からないと、数式に何を当てはめるのか悩んでしまうのに、理論が見えて、必要な情報を正しいところに当てはめれば正解が出る。道筋を間違えれば必要な情報が得られないから正解が出ない。数字は正直ですね。けれど人間の感情は数字では表せません。色々なところで少しずつ誤差が生じれば…正解からどんどん離れていくことでしょう。すみません、つまらない数字の話などしてしまって。どうぞ、つまらない話の部分はお気になさらずに。」


気にしないはずがない。リカの言うつまらない部分が最も重要なメッセージなのだろうから。

尚哉は以前、耶恵を選んだ理由は決められた事実を受け入れられることだと言った。別の言い方をするならば、計算しやすいということだ。しかも感情を有する人間の割には誤差がそれほど生じることなく。


尚哉には導きたい答えがある。それはリカにも、おそらく隼人にも今のところは全容は見えていないであろう問題の。何かを握られている二人は、誤差なく動く。いや、動いていた。こういう会話の節々から既にリカの誤差は見えだしている。隼人だって、ドレスを決める前のリカとのランチを黙認したのは…誤差だろう。メインストリームには影響を及ぼさないであろう小さなこと。でも、積み重さなったら…

歪む?狂う?どうなるのだろうか。

どうせ歪んだ結婚なのだ。今更もっと歪もうと狂おうと…


立場上結婚しなければいけなかった尚哉。どうせするなら仕事にメリットのある女性を選ぶのは当然だった。ついでに耶恵のように従順ならば扱い易い。けれど着地地点はそこではない。出世に全てを注いでいる父を見続けた耶恵はつい社長という言葉にゴールを感じてしまっていたが、尚哉はその先の何かを見据えている、もしくは企んでいる。その為に見合いをしてまで、最も計算出来る都合のよい妻を選んだという訳だ。

「リカさん、今更だけど、わたしももっと数字の勉強をしたいと思います。ありがとう。」



最終出社日である金曜、耶恵はいつもより一時間早く起きた。大粒のダイヤがついた婚約指輪はさすがに会社には着けていきづらいが、昨日渡された指輪は気持ちも指先も華やかにしてくれる。

耶恵は決めたのだ。神田耶恵として退社するのではなく、ちゃんと田辺尚哉の婚者である耶恵として退社すると。

以前そろえられた服の大半は新居に運ばれることとなっている。けれどこれから通う習い事用に既に耶恵のクローゼットに収まっている服も多々ある。それを今日着ても、何の問題もない。むしろ田辺尚哉の婚約者なら、これを着る方がいいに決まっている。


短時間の割には、リカの見立ては確かだった。かばんも靴も同じブランドの違うラインで合わせても、耶恵に不思議とフィットするようだった。毛先を緩やかに巻いて、いつもよりしっかりとしたアイメイクをして、鏡の中の自分に笑いかけてみる。『後は自信を持つだけ』そう言われた気がした。


「今までお世話になりました。」

深々と下げた頭をあげると、目の前の部長の驚きをかくせない目が否応もなく入ってくる。

「神田さんが退職するのは本当に残念だよ。僕なんかじゃなかなか難しいけど、何かの機会にまた会うことができればうれしいね。田辺さんに宜しくお伝え下さい。」

田辺という姓が入るだけで、部長の言葉は不思議とその部分だけ締まった。更に驚きの目は口から出た田辺という音のせいだろうか、まるで取引先の要人を見るような目に変わった。これでいい。耶恵は決めた通り、田辺尚哉の婚約者として退社できそうだ。


部署内での挨拶、人事部長への挨拶が済むと、予想外にも社長へも挨拶することとなった。

「神田君も鼻が高いだろうね。こんなきれいで華やかなお嬢さんがいたら。」

父親から、社長は父の何年か上の先輩でこの会社の社長に納まったと聞いたことがある。本社のポストの数は決まっているのだから、行き先がなければ関係会社や子会社へ行くしかない。父に言わせれば、彼は負け組だ。そんな言葉を使って先輩を形容してしまう父こそ人間性において負けていると耶恵は思ってしまうが。


「これから色々大変だと思うが、うまく息を抜く方法を覚え、自分の人生を大切にしてくれたまえ。わたしが言うのも変だが、社長夫人という職業は、会社とその社長によって業務内容が大きく変わってくるから、そこだけは早く自分の役割を見極めたほうがいいだろう。」

「ありがとうございます。」

父に対する恨み辛みでも非難でもなく、社長は純粋に耶恵に餞の言葉を贈ったようだった。

そして父を分かっているから、耶恵の役割も理解しているのだろう。大切な出世のための道具だと。出世レースという渦中からはずれ、外から眺めることができる彼には中にいるときよりも、勿論色々なことが見えている。

『息を抜く』、『自分の役割を見極める』使った言葉や口調は違えど、リカにも言われたことだ。


耶恵は「餞の言葉」というものよりも内容であるアドバイスそのものに感謝をした。不思議と目の前の人物はそれを見越していたようで『正しく見極めることが出来れば、耶恵さんにとってとても有効な何かになるだろう。』とも付け加えた。

「はい、そう思います。」

「神田君にも宜しく伝えておいてくれるかな。じゃあ、また結婚式で。」

「はい。ありがとうございました。」

田辺尚哉、もしくは田辺家の誰かと社長は面識がある、そんなことをぼんやりと思いながら耶恵は部署に戻った。




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