絶対条件

 




体が怠い。原因は分かっていた。

朝方まで眠れなかったのと、その間、イクということを繰り返したからだ。

克実の手や舌に翻弄され、自らもその快楽に溺れ、果てた。その結果がこれ。当然のことと言えばそれまで。


「今日の耶恵、何か気怠そうで色っぽいじゃん。男でも出来た?」

「はるちゃん、あり得ないから、それ。第一、彼氏出来たら報告するって約束でしょ。」

「出来たのと、エッチが同日なら報告は今日でしょ。」

「それこそあり得ないから、そんなこと。」

「でも、この間お見合いするって言ってたし。その後どうなの、その人と。」

「…明日、会うことになった。」

「えっ、すすんでんだ。」

「進むも何も、急にそうなったから良く分かんないよ。」

「相手の人、お父さんの会社のお偉いさんの紹介なんでしょ?上手く行けば、耶恵、玉の輿じゃん。耶恵はきっとお見合い結婚だと思ってたけど、相手がそんなだと、何か敗北感。」

「敗北感って…、恋愛がまともに出来ないわたしの方がとっくに負けてるよ。」


その日の午後は最悪だった。ただでさえ昼食後という事で眠いのに、夜の疲れが加わって。更には時折克実が何をしたか思い出す始末だった。




10時30分。もういつでも出発出来ると思いながらも、耶恵は念の為かばんの中身を確認した。ここまで準備を整えながらも、忙しい立場であろう田辺尚哉から断りの連絡があることを願いながら。

もしくは耶恵の父のようなタイプを欺き笑い飛ばす為に、最初から来ないつもりというのもいいだろう。彼はそういうタイプに思える。


どれくらいかばんの中身をチェックしていたのかは分からないが、伸哉の呼ぶ声に耶恵は我にかえった。

「うちの前にポルシェ、来たけど。姉貴の見合い相手じゃね。」


田辺尚哉がそういう車に乗っていても何の不思議はない。というより、神田家と付き合いのある人間でそんな車に乗っている人間は一人もいない。

耶恵が立ち上がるより先に、玄関の呼び鈴がなった。父が機嫌の良さそうな声で耶恵を呼ぶ。それは耶恵の望みが叶わなかったことを意味する。


「では神田さん、耶恵さんをお借りします。」

「耶恵、田辺さんに迷惑を掛けないように。」

分かってはいたが、父から『気をつけて』とか、『楽しんでおいで』というような言葉はなかった。代わりに言われたのが『迷惑を掛けないように』。どう理解すればいいのだろうか、その言葉は。



「どうして食事に誘ったのか聞かないのか?」

「会って話すことがあるんだろうと理解しています。」

「そうか。まあ最終面談ってとこだ、結婚の。」

耶恵は尚哉が見合いではなく結婚という単語を使ったことに驚かずにはいられなかった。

それでも相手にそれを気付かれないよう平静を装い「わたしがですか?」と切り返した。


「喜べ、今のところおまえが筆頭だ。」

「分かりません。どうしてわたしが、」

「決められた環境で生きていくという点では、おまえが一番おつむが良さそうだった。」

「それはどうでしょう、」

「おまえは決められた事実を受け入れられる。現にこうして俺の急な呼び出しにも来ただろ。」

「それは、」

「子供の頃からそう育てられたんだ、体に染み付いてるんだろうよ。」

耶恵は田辺尚哉の洞察力を怖いと思った、たった一回会っただけなのにそこまで見抜いてしまうのだから。

「今更だが、食えないものは?」

「よっぽど変なものでなければ。」

「じゃあ大丈夫だ。オーソドックスなものがでる店だから。」

尚哉につれてこられたのは、ホテルの中にあるフランス料理レストランだった。名のる必要はない、尚哉が来たことはフロントから既に連絡済みだったのだろう。支配人自ら席へ案内してくれた。オーダーなどせずとも、ワインが出され、前菜も運ばれた。


聞かれたのはメイン食材のチョイスくらい。

それに対し尚哉は自分の希望と、耶恵のためには一皿づつのボリュームを落とし魚と肉の両方をリクエストした。傍目には尚哉の優しい配慮に見えるだろう。けれど耶恵は気付いてしまった。

尚哉が演じていることを、その笑顔が作り物であることを。


「やっぱり賢いな。そういうところは。」

「何がですか?」

「とぼけなくてもいい。おまえも作り物でいいからそれなりの表情で俺を見ろ。」

作り笑いは得意だ。どんなに心が曇っていても、いや泣く代わりに笑うことだって出来る。

どうしてそんなことまで、この無神経で傲慢そうな男が分かるのだろうか。もしかしてこの男は本当は繊細なんだろうか。耶恵の頭には田辺尚哉という人物像に対する疑問が生じてならなかった。


デザートは耶恵のところにだけ運ばれた。甘いものは好きではないということだろう。尚哉の嗜好など覚えなくてもいいと思いつつも耶恵は心にとめた。


レストランを出たところで、耶恵はふと自分もワインに口をつけてしまったことに”しまった”と思った。

飲んでいなかったとしても、あのケイマンを運転する自信はないが。それか、ここをよく利用するか何かで会社なり個人で駐車場を借りている可能性もある。どちらにしろ運転は出来ないのだから、車をどうするかは聞いてもいいだろう。


「あの、車どうしますか?タクシーか何か必要なら手配お願いしてきますけど。」

「必要ない。部屋を取ってある。あれくらいなら、少しすればアルコールはぬける。」

「分かりました。では、わたしはこれで。」

家まで送られるよりは、一人で帰った方が気が楽だと思った耶恵が別れの挨拶をしようとしたときだった、尚哉の手が細い手首を力強く掴んだのは。


「おまえも来い。」

「でもお休みなさるなら、一人の方が、」

「話がある。内容が内容なだけに部屋の方がありがたい。」

「でも、」

「俺に迷惑は掛けないんだろ。だったらおとなしく従え。」

部屋は予想に違わずスイートだった。アルコールをぬくのと耶恵と話をする為だけにとった部屋にしては豪華すぎる。けれど、これがこの田辺尚哉という人物にとってのスタンダードなんだろう。


部屋に入ると、尚哉はルームサービスに電話をした。

『エスプレッソをダブルで、それとアールグレイをポットで。』

先程耶恵が頼んだ飲み物を覚えていたのは意外だった。程なくして飲み物がラウンドテーブルにセットされると、尚哉は耶恵に座るよう命じた。


「あまり時間がない。だから式は二ヶ月後。新婚旅行はなしだ。住居はおまえの名義でマンションを買う。あとでの名義の書き換えは面倒だから、買う前に籍を入れる。質問は?」

「あの、質問より何より、話が理解できないんですが。」

「簡単だ。おまえは俺と結婚する。」

「おっしゃっている意味が理解できません。」

「さっき言っただろ、おまえは筆頭だと。順当じゃないか。詳しいことは後でここに来る山科に聞け。この間顔を会わせた男だ。」


耶恵の脳裏に先程尚哉が言った『決められた事実を受け入れられる』という言葉が浮かんだ。この男も父と同じ、決定事項は揺るぎのない決定事項。


「ただ一つ気になることがある。それさえクリアになれば、今日にもおまえのあの父親に正式に返事をする。」

同じなのに、尚哉は耶恵の父を嫌っている節がある。

言葉の端々からそれが伺えてならない。同族嫌悪なのだろうか。そして一つ気になることとは…。


ちょうどその時部屋の呼び鈴がなった。尚哉は時計をちらっと確認すると、耶恵にドアを開けてくるように言った。

「耶恵さん、お久しぶりです。いつぞやはちゃんと挨拶もしないですみませんでした。」

「あ、こんにちは。」

耶恵が先程名前を聞いたばかりの男は、既に耶恵を良く知っている風の口ぶりで言葉を発した。

「申し遅れました、山科隼人です。これから宜しくお願いします。」

そして先程耶恵が尚哉から言われたことを『これから』という言葉が表すように既に知っていたらしい。


隼人と共に尚哉のところへ行くと、尚哉は『時間通りだな』とだけ言い、不敵な笑みを浮かべた。耶恵にはその表情がひどく恐ろしく見えた。

「今から山科さんにご説明いただくということですか?」

その問いに、隼人は頷くのではなく下を向いた。

「さっき言った気になることを確認してだ、山科がおまえに説明するのは。じゃあ早速始めるか。」

その言葉がまるで合図のように、隼人は耶恵の隣から後ろへ移動すると素早く耶恵の両手首を背中で拘束した。


「いや、一体何なんですか、」

「質問するだけだ、まずは。」

「じゃあ、手を離して下さい。」

「人間は恐怖が伴ったほうが、嘘をつかない。嘘をついたら痛いめに合うっていう意味だ、拘束は。」

『痛いめ』、耶恵はその言葉に子供の頃を思い出した。父に逆らえば、痛いめを見させられた子供の頃を。

「やっぱりおまえはそうやって躾けられてきたんだな。でも俺が気になっていたのは違う暴力だ。男親が娘にする暴力は他にもあるだろ。母親がああも娘に興味がないのは、そうしないと耐えられないことが父親との間にあるのか?」



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