楽園のとなり

 

1



人間は面白いもので、長年身につけた習慣を簡単には脱ぎ捨てることができない。

朝起きれば、会社へ行く準備をする。朝食を取り、身支度をして、そしていつもの番組に表示される時間が所定の時刻になると家をでる。


先週の金曜日まではそんなことはなかった。けれど今週は重い足取りで駅に向かう。靴が重いのか、足が重いのか





水森響子の朝に『ベットの中で辞表について考える』が組み込まれたのは月曜だった。

理由は簡単。特定の人物と顔を合わせたくないから。

けれども、特定の人に会いたくないという理由だけで会社が辞められる程身は軽くない。

ベットから顔を上げて見回せば、小さいながらも1DKのアパートの中が見渡せる。親元を離れてから数度ここを更新した。古さは否めないものの、立地条件の割には安い。その安い家賃でさえなんとか払っている現状。やはり経済的な理由からも、仕事はすぐには辞められない。


両親も今回の会社吸収の件を喜んでいた。一転大きな会社に勤めることになった娘に母親はこれで未来の旦那さんも見つけられれば将来安泰ね、なんて言葉までかけたほどだ。両親の期待だって裏切れない。


そして自分を頼る小さな存在。このアパートは動物OKだったので、一年半前から同居をしている猫もいる。


深く大きなため息をつきながらこの日も響子はベットから起き上がった。

「シロ、ご飯いれるからね。」




不思議なもので会社の前までくると、重い足取りは一転諦めのせいか普通になる。エレベーターの前で見知った顔に会うと、自然と笑顔で挨拶を交わす。


「水森さん、おはよう。」

不意に後ろから声をかけられた。

その声が与える安堵感に響子はそれまでの笑顔とは違う顔で振り向き言葉を返す。

「主任、おはようございます。」

「ちょうど良かった、まだ時間があるからちょっとコンビニ付き合ってもらえますか?」

雅徳に促され、三階の小さなコンビニに響子はついていった。


「お礼に何か飲み物でもどうぞ。」

「あ、でも私本当について来ただけみたいですけど?だからお礼なんて。」

そう恐縮する響子に適当に飲み物をあてがい、雅徳は困り顔で続けた。

「実は、水森さんが疲れているみたいだから何かあったのかと思いましてね。実際、会社を変わったばかりだし。至らない上司としても、急に辞められたら困りますから。」

「そんな、至らない上司だなんて。短い期間ですが、そんなことを思ったことはありません。今回の移動で誰よりも良い上司に拾ってもらったと思っているぐらいです。」

「それは良かった。でも、今日は、そうだな、1030くらいから10分だけミーティングをしましょう。いいですね?」

穏やかな顔でそう言った雅徳はそのままレジに向かってしまった。自分の中の何かを見透かされたようで、響子は一瞬言葉を失った。


「水森さん、行きますよ。」

その場で立ち尽くす響子に再び雅徳の温和な声がかかり、二人はコンビニを後にした。


席に着くと、先週までは響子から声をかけていた人物に先に挨拶をされる。

「おはよ、水森。」


月曜から、亜樹が響子を呼ぶときには『さん』が消えていた。昔のように『水森』とだけ呼ばれる。そして先週までの軽くあしらうような視線ではなく、真剣な視線を投げかけてくる。

その視線に射られたかのように、響子は小さな声でおはようございますと呟いて下を向く。

けれども、仕事中はどうしても響子から声をかけなくてはいけないこともある。そのたびに、居た堪れない気持ちになり、仕舞いには会社を辞めれたらと思ってしまうのだった。


1025を時計の針が少しまわった頃、雅徳が自席をたった。

そして、響子に声をかけると打ち合わせスペースの一つへ向かった。朝の話の流れからすると筆記用具等は不必要に思える。けれども、響子の思い違いだといけないので筆記用具を携えて雅徳の指定したスペースへ向かった。


「必要ありません、書くものは。」

響子のノートとボールペンを見るなり、先に座っていた雅徳が声を発した。

「主任からのオーダーを忘れてしまったら大変ですから。」

「今日の打ち合わせはオーダーではありません。それよりももっと大切なことだけど。」

「大切な

「そ、大切な。水森さん自身のこと。」

「私の?」

「そう。何を悩んでいるんですか?何があったんですか?もし、僕でよければ話して下さい。」

「悩みですか?きっと悩みは誰でも持っていると思います。私も人間ですから多かれ少なかれ持っています。特に、主任にお話するようなことは…。」

「こういうのはいけないのかもしれないけど、主任という立場ではなく、僕個人としても君には元気でいて欲しいから、だから、僕でよければ、僕に話して楽になるのであれば、」

「主任、大丈夫です。私個人の問題ですから自分自身でマネージできます。主任の目に心配していただくような姿で映ってしまったことは申し訳ございませんでした。私情は持ち込むつもりはないので。」

「主任という立場だけでなく、僕個人も君の変化に気づいている。会社でいきなりこんなことを言って非常識かもしれないが、僕は君を個人的な対象として目で追っている。」

「私、主任にそんなことを言ってもらう価値は全くありません。」

「どうしてそんなに自分を蔑むんですか?」

「私、駄目なんです。申し訳ございませんが、失礼させていただきます。」


雅徳の発した言葉の意味は、いくら響子でも理解できていた。


自席に戻ると亜樹から言葉がかけられる。

「どうしたんだ水森、なんか顔が赤いけど。熱でもあるのか?」

「あ、えっと、なんでもないの。日下部君が気にするようなことじゃないから。」

気が動転していた響子は意識することなく、亜樹を日下部君と呼んでいた。懐かしい昔のように。




亜樹は月曜から謝罪の気持ちに苛まれながら響子に接していた。そして遠い過去と近い過去を悔いていた。


遠い過去の響子はふわっとした雰囲気を常にまとい、やさしい笑顔を浮かべる子で、本当に可愛かったのを覚えている。本人は知らなかったようだが、多くの人間が想いを寄せていた。


今の響子にはふわっとした雰囲気はまるでない。過去を知っている亜樹には怯えているのがよく分かる。そして、その原因は亜樹が作った。

「ごめん、謝ってすむことじゃないけど。」

亜樹が小さな声でそう言うと、響子が更に小さな声で言葉を遮った。

「ほんとに何でもないから、何にもなかったから。」

「水森、無理だよそれは。今日こそは、仕事終わったら俺に時間をくれ。」

「日下部君、それこそ無理だよ、ね? 私午前中にあげなきゃいけない仕事があるから。それじゃあ、」

それきり響子は隣にいる亜樹の存在を打ち消し仕事に集中した。




朝と夕、雰囲気は変わる。更に金曜の夕方ともなるとそれは顕著だ。

3Gは若手が多いせいなのか、妻帯者がいないからなのか、金曜の夜は飲みに行くことが多いらしい。小出が今日の店はどうするだとかなんだとかを3Gの他の面子と話している。そして、響子の元にもやってきた。

「水森さん、金曜の夜だっていうのに今更なんだけど、予定がなければ今日3Gの何人かで飲みにいくんだけどどお?今週なんだか元気がなかったから、ぱーっとね。」

「元気ならありますよ。でも私あんまり飲めないんですけどお邪魔じゃないですか?それでもよければ是非お願いします。」

と微笑む響子に小出はつい口を滑らせてしまった。言ってはいけないセクシャルハラスメントネタを。

2週連続になっちゃうけど彼氏とか怒らない?」

「ふふ、小出さん、いませんよ。そんな人は。」

別に気にもしていないので正直に答える。

「ホント、水森さん?」

「はい。」


「亜樹ちゃんは、今日もデートか?」

響子との約束を取り付けたご機嫌な小出が、茶化しながら横にいる亜樹に尋ねる。

「そのつもりだったけど、相手に断られた。」

「ほんとかよ亜樹ちゃん?でもおまえこの間秘書課の子と終わったばっかりだろ。もてる男はいいねぇ、次から次えと。」

「うるせえ。でも、しょうがないから俺も付き合ってやるよ。」

「珍し、ま、可哀そうだからたまには日下部も連れて行くか。いい、水森さん?」

まさかイヤだとは言えない響子は頷くしかない。歓迎会の席で小出は確かに言っていた、亜樹は女に忙しくて普段特別な席以外はなかなか顔を出さないと。だから、亜樹が加わるとは思っていなかった響子としては痛い誤算だ。


終業時間が近づくにつれ、気は重くなる。雅徳が急な仕事のオーダーを投げてくれないかというささやかな希望は叶いそうにない。そもそも計画的に動くタイプの上司なので。

だからこそ意を決してメモ書きを忍ばせ雅徳の席へ向かった。そして、書類を提出する振りをしてメモ書きを見せた。


"主任、相談ではないのですがお願いがあります。今日、これから仕事依頼をお願いできませんか?勿論残業代はいりませんからお願いします。"

書類を直す振りをして、雅徳が書き足す。

"理由は?"

その文字を追ってうな垂れる響子に雅徳が更に書き足す。

"分かった、でも理由は後で必ず話すこと。それが約束できるなら顔をあげて。"

理由もなしにお願いができるなんてことはありえない。響子は諦め半分顔を上げた。


「水森さん、悪いんだけど追加でこれも提出しなくてはいけなくなってしまったんだ。この埋め合わせは必ずするから今日少し残業をお願いしたい。」

「え、あのぉ、」

「普段はこんなことあまりないんだが、今回は残ってもらえないかな。」

「分かりました。」

傍目には了承の意で頭を下げているように見えるが、本当は感謝の気持ちを表すために響子は頭を下げていた。その足で事情を小出に話しにいくと、残念がりながらもあの雅徳が依頼しなくてはいけないことだということで響子の参加を今回は見送ってくれた。


自席に戻ると亜樹が自分の方を見ているのが分かった。





Back    Index    Next