楽園のとなり
楽園のとなり
2
雅徳が渡しのは、期限が2週間も先の書類だった。今貰っても処理のしようがないもの。
仕方なしに手持ちの仕事を片付けながら、響子は申し訳なさそうな顔をして小出たちを見送った。
就業時間を2時間くらい過ぎた頃、雅徳がやってきた。
「さ、水森さん、うちのメンバーは皆引き上げましたよ。そろそろ理由を教えてもらいましょうかね。」
「あのぉ、」
「ま、ここでは何ですし、夕飯を兼ねてどこかへいきましょう。」
「あ、私、ご馳走します。今日のお礼に。」
「分かりました。じゃあ、僕の知っているところでいいですか?」
「はい、でも、あまり高くないところでお願いします。」
くすりと笑いながら、雅徳は15分後に下のエレベーターホールでと言い残し席へ戻っていった。
雅徳が連れてきた場所は静かな、そして明りがあまり強くない店だった。表現を変えるなら、心に巣くっている悪いものを話したくなるような雰囲気だった。
響子には何を飲むかだけを確認し、後は全て雅徳が取り仕切った。会話の主導権も。
「一つ質問させて欲しい。今日の残業と最近の水森さんの様子とは関係がありますか?」
「あの、実は、私、その、」
響子はとにかく嘘の理由を就業中に作り上げていた。けれどもその内容を雅徳に言うのは、嘘とはいえかなり恥ずかしい。しかし、この理由なら全てがつながりしっくりいくと考えて作り上げたものだった。そして、深く追求されることはないはず。
「生理なんです。生理前になると調子が悪くて。今日グループの皆さんに飲み会に誘われたんですけど、その後きちゃって、で、生理のときにアルコールが入るとただでさえ弱いのに、余計辛いから。でも、皆さんに本当のことは言えないから。」
真っ赤になりながらも言葉を続ける響子を遮るように雅徳が言葉を放った。
「そんなに頼りにならない、そんなに信用できない?」
「えっ、」
「うまい理由だとは思います。けれど、僕も部下を預かる身ですから、体調が悪いのと思い悩む顔の違いはなんとなく分かりますよ。」
次に言うべき言葉を響子は失った。けれども、言葉がないまま雅徳と向き合い続けるわけにはいかない。
「主任、すみません。おっしゃるとおり、生理は…嘘です。実は今日グループの飲み会に誘われたんです。最初は気分転換も兼ねて行こうと思ったんですけど…、行くって言ってから、やっぱり行きたくなくなってしまって…。」
「その気分転換をしたかった原因は何ですか?」
「それは…、申し訳ございません。まだ自分でもどう話していいのか分からなくて。」
「分かりました。今日は原因まではいいですよ。じゃあ、ここから仕切りなおして夕飯を楽しむことにしましょう。水森さんの嘘に僕は既に付き合ったんですから、今度は水森さんの番ですよ。」
「ごめんなさい。好きなだけ召し上がってください。それくらいしかできないんで。」
それからの時間、雅徳が本当の原因を聞くことはなかった。
そして、店を出るときには伝票は雅徳が持っていってしまった。
「困ります、主任。今日は私の嘘につき合わせてしまったんですから。」
「いいですよ。お陰で僕も水森さんと過ごせたから。」
真顔でそんなことを言われて響子は赤面した。
「でも、それじゃあ主任に嘘はつかせるし、ご飯はご馳走させちゃうしで…。」
「じゃあ、僕のお願いをきいてもらえますか?」
「私にできることなら何でもおっしゃってください。」
「学生の頃によくやったファミレスで始発が動くまでコーヒーを飲みたいな。今日の代償に時間を貰えますか?」
響子の頭を不意にシロが横切った。先週は歓迎会があると分かっていたので、朝えさを多めに入れてきた。でも今日は…。
「主任、変な意味に取らないで下さい。誘っているわけでもなんでもないんですけど、ちょっと事情があって、一度家に戻ってもいいですか?それからなら、勿論、朝まで大丈夫です。」
「良いんですか、僕がついていって。」
「はい、でも、待っててもらえますか?」
「喜んで。」
二人は一度響子のアパートに立ち寄り、その後近くのファミレスへ行くことにした。
アパートに入り、シロの皿をみると案の定からだった。そしてトイレには毎日の生活の営みのあとも落ちていた。
5月上旬のわりには案外寒い夜だった。シロの落し物を回収して猫砂を足して…、やはり雅徳を外で待たせるのは気がひける。
「主任、ちょっと時間がかかるので中で待っていてもらえますか、コーヒーインスタントですけど?」
雅徳が中に入ると小さな物体は怯えて奥へ逃げていく。
「その子が水森さんの大切な猫なんだ。」
「白黒の猫なんですけど、名前はシロなんです。」
「僕が夕方から水森さんを独占したから怒ってないかな。」
「大丈夫ですよ。ね、シロ。」
猫に話しかける響子の顔がとても穏やかなことに雅徳は安堵を感じた。
「水森さん、これこそ変な意味にとらないで欲しいんだけど、ファミレスはやめてここで朝までコーヒーを頂けませんか?そうすればシロも喜ぶと思いますよ。勿論僕は不埒な考えなど持ちませんから。」
不埒…、響子に一瞬先週の映像がフラッシュバックする。けれど、どうしてかは分からないが、雅徳の言うことは信じられる気がした。
「主任、女の子の一人暮らしって男の人が想像するものと結構かけ離れていたりするんです。私のところも例外じゃなくて…。しかもシロがいるから…、散らかっていますけど、それでもよければ。でも、せめて落とすコーヒーくらいはだしたいので、今からスーパーに付き合ってもらえますか?」
「いいのにインスタントで。何を飲むかじゃなくて、誰と飲むかが重要だと思うんですけどね。」
やさしい微笑みを見せる雅徳に、つい響子は赤面してしまう。
「でも、それじゃあ私の気が済みませんから。」
スーパーで翌朝の朝食の材料も買いそろえ、二人はアパートへ戻った。
「水森さん、そろそろ金曜日が終わりますね。そこで一つ提案があるんだけど。」
「何ですか、主任?」
「それ、まさしくそれ。ここは会社ではないし、もうすぐウィークデーも終わるから、土曜になったら僕個人と君との付き合いに切り替えて下さい。主任は止めて、御厨でも雅徳でもなんでもいいから普通に呼んでくれませんか。そして、僕も君が普段友達に呼ばれているように呼ばせてもらいたい。」
「み…、くりやさんですか?ちょっと緊張します。」
「けれど、君に主任と呼ばれ続けると仕事を思い出してしまって。さっき言ったように学生時代のように朝まで過ごしたいんだけど。」
「分かりました。24時を過ぎたら御厨さんって呼びます。」
「水森さんの友達はみんなどうやって呼んでいるんですか?」
「私は、水森って呼び捨てにされたり、響子だったり響ちゃんだったり、人それぞれです。」
「さすがに下の名前は気がひけるから、やっぱり水森さんだな。」
二人は深夜番組をみたり色々な話をして過ごした。そして4時半を過ぎた頃にはその場で眠りに落ちた。
7時をまわった頃、響子はシロが周りをうろうろする気配で起きた。雅徳は深い眠りのままのようで、気持ち良さそうに横たわっている。
響子は物音を立てないようにキッチンへ向い、ここに住んでから初めて異性のために朝食を作り始めた。
油と卵が焼ける匂いに気付きながら、雅徳はその場でまどろんでいた。まどろみながら食べ物の出来上がる匂いを感じるのはいつ以来だろうか?と思っていた。すると自分よりも体温の高い白と黒の生き物が、自分の体温を求め体を寄せてきた。自分以外の体温を感じた最後はいつだったか?
「御厨さん、お口に合うか分かりませんけど朝食できましたから起きてください。」
1DKの響子のアパートでは、雅徳が転がっているスペースが食事をする場所でもある。
「有言実行はできなかったか。始発はもう動いているよね?それに朝食まで出してもらって申し訳ない。」
「どうせ私も食べるんですから、一人より二人のほうがいいです。それに朝食って言っても大したものじゃないし。」
二人はそれから朝食をとり、穏やかな時間を過ごした。
時間を感じさせない雅徳の穏やかさ。それは昔の亜樹が持っていた雰囲気に似ていた。
響子はそんなことを考えながら、過去の亜樹と現在の亜樹の違いを悲しく思った。そして、ふと先週亜樹が言ったその原因を作ったのは自分だいう言葉が頭をよぎった。