楽園のとなり

 

10


「水森さん、」


朝、亜樹とあんなことがあったので、顔を会わせ辛かった響子はいつもより早めにマンションを出た。そして、うしろから心地よさを覚える声に呼び止められた。

振り返らなくても分かる、その声の持ち主は。だから振り向き様には既にその名前を呼んでいた。


「御厨さ、あ、主任。おはようございます。」

「たまには早めに家を出てみるもんですね、こうして水森さんに途中で会えるなら。」

「わたしも今日は、たまたま早めに家を出てしまって。だからのんびり会社へ行こうと思って。」

「じゃあ、お互いの偶然の針が重なったんだね、今日は。」

そう言って、笑顔を見せる雅徳に響子は赤くなって俯いてしまった。


「僕は途中でコーヒーでも飲もうと思っていたんですが、どうですか水森さん、ご一緒に。」

響子は一瞬考えたものの、早く行ってまで行なわなくてはいけないことが特にないので雅徳の申し出を受けることに。


それから二人が向かったのはサイフォンからのコーヒーの香が漂うカフェというよりは喫茶店だった。


「会社の近くにこんな時間から開いている本格的なコーヒー屋さんがあるなんて知りませんでした。」

「ここは朝も夕も早い店なんだ。お昼はピザトーストとか、サンドウィッチとか、いかにも喫茶店ていうメニューで何かノスタルジックな店内と全てがしっくりきていて、つい来てしまうんだよね、この雰囲気が恋しくて。良ければ今度誘うよ、お昼に。」

「え、あ、あの、」


雅徳の誘いにどう答えていいのか分からない響子は言葉が続かない。その反応の初心さに雅徳は軽く笑いながらも、本当に話したかった内容を口にした。


「ところで、最近はどうですか?水森さんの表情を見る限りでは、悩み事は良い方へ向かっているようですが。」

「あ、えっと、その、根本的な解決は図れていないと思うんですが、少しづつなんとかなっていると、」

「その上で、もう一度言わせて下さい。僕に力になれることがあったら何でも言ってください。前に言った言葉は今も変わりませんから。いや、寧ろ以前よりももっと僕は君が気になっている。」


響子は自分に向けられたその言葉を、不思議と穏やかに捉えていた。普段の自分なら、恥ずかしさで俯いてしまいそうな内容なのに。

きっと雅徳が響子に放つ雰囲気と同化してしまったのかもしれない。


その穏やかさは響子に次の一歩を踏み込ませた。


「あの、わたし、今まで誰かと付き合ったことすらないんです。だから、男女間の駆け引きとか、何をどうしたらいいかとかは良く分かりません。ただ、その、主任が気になって下さるのは、…イヤじゃないです。」

最後の言葉を口から出すと、自分でも驚くほど響子の心拍数は上がっていった。


そして、雅徳の心拍数も。目の前の響子は透けるような白い肌に頬を紅潮させ、じっと潤んだ瞳で雅徳を見つめている。そんな響子に自分は今、何をどう伝えればいいのか?


本人の言葉を別解釈するならば、響子は今までに誰のものにもなっていないということらしい。ただそれは、誰も彼女の領域に入り込めなかっただけだろうと思える。事実雅徳は響子の持つ何かに捕らわれ、失いたくないが故に近づけないでいる。


だからかも知れない、雅徳がこんな歳にもなって女性を誘うのに、こんなセピア色の喫茶店を使ったのは。

「じゃあ、今日の昼はここで一緒に食事をしましょう。」


夕食を一緒にとか、銀座あたりを歩こうという言葉は、どうしてか響子に重みを与えてしまう気がした。それよりは、今の流れをそのまま自分の力にするほうが懸命に思える。


潤んだ目のままの響子が雅徳の言葉に軽く頷いた。わざわざ聞き返す必要はない、誰が見てもそれは肯定のポーズなのだから。


「じゃあ、昼休みになったらそれぞれここに来て落ち合うってことでいいですか?」

小さな声で『はい』と言葉を発しながら響子は再度頷いた。





あんなことがあったので、本音を言うと亜樹は会社を休みたかった。けれどもそうもいかない。出社したとは言え、頭の中は仕事への集中もそこそこに、響子に何をどう伝えればいいのか悩んでいた。


「日下部、メシいくぞ。」

小出の一言で、亜樹はその日の午前中が過ぎたことに気がついた。進んだ仕事量を考えると、自分が響子の事で相当重症なのが分かってしまう。


いつもの面子でよく行く定食屋へ向かう途中も、亜樹は午前同様頭の大半が今朝の出来事で占められていた。


「それがさ、間違えなく主任と水森さんだったんだよ、今朝、俺の前を仲良く歩いていたのが。」

「嘘だろ、俺の響子ちゃんが、」

「いつから小出の響子ちゃんになったんだよ。でもさ、主任って浮いた話題が今までなかっただけに、もしやって感じだよな。」


「え、水森…さん、」

「なんだよ、日下部、またぼーっとして聞いてなかったのか?今日のおまえはちょっと変だぞ。まさかまた女と別れたとか?」

それまで上の空で周りの話を聞いていた亜樹だったが、不意に響子の名前がでてきたので、思わずその名前を口にせずにはいられなかった。


「いや、別れるもなにも今は誰ともそういう関係じゃない。」

亜樹の一言に周囲は驚きの声をあげつつも茶化したてた。けれども茶化したところで面白みのない反応の亜樹に周囲は飽き、少しすると話はまた響子と雅徳のことに。


どうやら二人はちょっと早めに出社した亜樹の同僚に、一緒に歩いているところを見られたらしい。本人達は気付いていないようだったが。


そして、今、話はどうしてそんな時間に二人が会社へ一緒に向かっていたのか?、更には、今まで御厨という人物が女性社員と仲良く二人っきりでいることをみたことはあるか?という部分に集中していた。


会社なので、男もいれば女もいる。仕事をする上では勿論その両方と話す。けれども、仕事以外の場面で同じグループの上司である雅徳が、女性社員と楽しそうに話しているところなど誰も見たことがなかった。


「やっぱあれかな、朝まで二人は一緒だったってやつか?」

小出が呟いた一言に、亜樹は口を開けずにはいられなかった。


「隣の席だからなんとなく分かるけど、水森さんてそういうタイプじゃないな。それに、あの御厨さんが仮にそうだとしたら、逆に朝っぱらからは一緒に歩いたりしないだろ。どう考えても。偶然出くわしただけじゃないか?」

本当のこと、自分と響子が同じマンションで暮らしていることは流石に話せない。けれども、響子が雅徳と一晩を共にしたかもしれないと思われるのは亜樹の中で何かが許せなかった。何より響子は本当にそういうタイプではない。


「確かにそうだよな、水森さんて見るからに男慣れしてなさそうだもんな。」

「そうだよな。あんなに綺麗で可愛いのに。」

「だけど、そのことを全然鼻に掛けてないのがまたいいよ。」

亜樹の一言のせいかどうかは何とも言えないが、やはり響子の人となりは、この短い期間でも十分周りに浸透していた。


「しかし主任の動きはどうなんだろ。あの人女子社員に人気がある割りに、今まで全く気にも掛けてなかったからな、そういうの。」

「そうだよな。」


昼の話題の多くは響子と雅徳のことだった。まあ、自分達のグループに来た女子社員と上司ということが理由の一つかもしれない。けれど、本当は響子そのものに対するみんなの興味と、それぞれの腹の探りあいだった。


話にはあまり加わらなかったが、雅徳の行動、そして多くの人間が響子に対して興味というよりは好感を抱いていることに何か突っ掛かるものを感じずにはいられない亜樹だった。




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