楽園のとなり

 

11


一日の始まりに起こったのは、頭の中が全てショートしてしまうのではないかと思える亜樹の口付け。事実、響子の頭の中はその後真っ白になった。


けれども、程なく真っ白な頭の中は雅徳によって優しいセピア色に。まるで高校時代の亜樹との思い出のような。全てが虚となったあの日までの。

けれども響子に優しい声を掛ける雅徳は、亜樹との思い出のように否定にはならなかった。それどころか昼食を共にし、そして


帰りの電車の中、響子は次々に浮かぶ今日の事、過去の事を思い浮かべながらこれからを考え倦んでいた。


考えてはみたものの、雅徳へは既に答えたのだから結果は変えようがない。土曜は一緒に出掛けて食事をする。何か行動を起こさなければ、何も変わらないのだから。




ショーウインドウには夏を代表するフルーツが散りばめられたものが目立つ。それと一緒にキラキラ光るクラッシュゼリー。このゼリーのように光る笑顔が見たいと思った。それも自分だけに向けられる。


何が好きかは分からないながらも、亜樹はそのことだけを願って選んだ。

振り返っても、過去にそんなことをした記憶はないが、今は心からそう思える。


勿論、品物を女性に贈ったことはある。ただそれは、その女性との付き合いが誕生日やクリスマスと言ったイベントに重なったときと、やむを得ず関係を丸く治めたいときに。そこに、今のような気持ちはなかった。


『馬鹿らしくなる』この言葉が適切なのか、それとも『虚しくなる』が正しいのかは分からない、だけれども全ての間違いの始まりは響子。それも、本人に真実を確認する勇気がなかった自分が作り上げた虚像の。


運がなかったのは、その虚像が正しいと思わせるようなタイプと立て続けに二人付き合ってしまったことかもしれない。けれど、今なら分かる。


全ては自分が招いた。

”You asked for it. ”




駅からマンションまでの道のり、亜樹は自分の手にぶら下がっているものを響子に渡すときに何と言うべきか考えた。

—自分が食べたかったから一緒に

—朝はゴメン

—いつものお茶のお礼に


いくら考えても、どれも適切ではない。

適切な言葉…、嫌、寧ろ不適切だけれど…、その先の言葉が頭に浮かんだとき、自分がいかに取り返しのつかないことをしてしまったか亜樹はまたも思い知ってしまった。


罪滅ぼしじゃない、本当は響子が好きだから今の状態がある。罪滅ぼしという言葉は、響子を犯した自分に残された一番近くにいる為の隠れ蓑。

『大好きな水森の笑顔が見たいから』とこのプレゼントを渡せたらどんなに自分は幸せだろうか?

それを受け取りながら、あの頃のような屈託のない笑顔を響子が向けてくれたら…、でもそれは叶うことはない。自分にはそんなことを言う資格がないのだから。


本当の気持ちは封印しなくてはいけない。

封印しなくては、漸く築き上げた現実が消えてしまう。



この家でのルールの一つ、インターフォンを鳴らしてから亜樹は施錠を解いた。こうすることで、既に帰宅していた方は、もう一人の帰宅を認識する。


亜樹が台所へ向かうと、夕食を食べていた響子が声を掛けた。

「お帰り。」


朝の一件以来、まともに目をみて掛けられた一言だった。


「これ、甘いもの。栄養つけろよ。」

あれだけ何と言葉を掛けようか悩んだのに、出てきた言葉は気が利かない。


「日下部君、これは病気じゃないからそんな気を使わなくても大丈夫だよ。」

「あ、でも、一人じゃ食い切んないから、食べてよ。」

「うん、じゃあ、ありがとう。後で紅茶淹れるから一緒に食べよ。」

本当の気持ちも、気の利いた言葉も出てこなかったけれど、響子から出た言葉は確かにこの後二人で過ごす時間があることを亜樹に示唆した。


「じゃあ、俺も着替えてメシ食っちまうか。」


夕飯は別々に。

たとえ時間が重なろうと気を使って相手の分までは作らない、これも二人の間のルールの一つ。家賃6割に加え、高熱水道費を全て払う亜樹に対して、響子としてはそれくらいはしたかった。けれども同居でそれはおかしいからという亜樹の意見は揺らぐことはなく、今に至っている。


朝食作りだって週末やんわりと断られた。


家賃、高熱水道費、食事、手土産、どれを取ってもこの生活で亜樹が響子に気を使いすぎているのは明白だ。

亜樹自身が望んだ生活だとは言え、何かが『良くない』。


この同居を最初に提案してきたときに、亜樹は響子が消えてしまいそうで眠れないと言っていた。あの時はそこまで考える余裕がなかったけれど、この生活で亜樹の色々な表情を垣間見る今なら分かる、彼は心の底から苦しんでいる。


何かの罰のように自ら苦しみを隣に置いて生活することを選択した。

どうしたら解放してあげられるのか?、その答えは簡単…。でも、亜樹が納得するかたちを取らなくては。

納得するには


『水森の傍に支えが出来るまでのつなぎなんだから、俺は。』

昼食の時に雅徳が言った、『もし良ければ土曜日に食事でも』という言葉の後、何故か亜樹のこの言葉が思い出された。亜樹のつなぎという役割を終息させるには、響子が飛び立たなくてはいけない。


響子自身も不思議だった、けれど雅徳ならば好きになろうとして好きになれるような気がした。




結果として、笑顔は自分に向けられた。自分が思い浮かべていたものとは違う気がするが。

「うわぁー、どれも美味しそう。でもどうして4個も?」

「選んでたら、絞りきれなくなった。」

「ふふ、なんか日下部くんらしくないかも。」

確かに自分らしくない。でも絞りきれなかったのは事実。なぜなら、外したくなかったから。そして、それぞれ違うタイプを提示することで響子の好みを知りたかった。少しづつでいい、彼女を知りたい。


「どれがいい?先に水森が選んで。俺にはもう選びきれないから。」

「でも、」

「いいから、先に。」

そう優しく声をかける亜樹を見て、響子は全てを理解した。この4個全てのケーキは自分の好みに対応できるように亜樹がワザと種類を変えて選んできたことを。


なんて自分は重い存在なんだろうか。あの時、せめて経験が一度でもあれば、初めてだとはばれなかったはず。ここまで亜樹を後悔と罪に苛ますことはなかっただろうに。


「日下部くん、実は私も全部好きで、なかなか選べないよ。そうだ、アミダで選ぼうか?」

そう言うのが、亜樹が一番救われる回答のように思えた。亜樹の選んだもの全てが響子の好みならば。


響子は自分がにこやかに選べないことを伝えたときに、亜樹の表情も緩んだ気がした。そして辛くなった。自分のこんな些細なことで、亜樹の表情すら左右してしまうなんて。




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