楽園のとなり

 



気付いてしまえば簡単なことだった、同居は。

土曜の夜、亜樹の帰宅は随分遅かったようだったので、敢て日曜の朝食は響子一人で取った。

その後亜樹が起きてくる気配がなかったので、のんびりと朝風呂を楽しみ、部屋の片付けをして、今の会社に移る前と同じような日曜をゆったりと過ごした。しかも、会社が潰れるかもしれないなどという気持ちは全く持たずに。



片付けに疲れたのと、生理中ということも手伝って、気がつけば響子はベットの中で2時近くまで眠っていた。


転寝に気付きダイニングに向かうと、テーブルの上にラップがかぶせられた卵サンドが置いてあった。どうやら亜樹のお裾分けらしい。

とにかく作ったという言葉がぴったり似合う見た目の卵サンドと、それにはそぐわない綺麗な文字で書かれたメモ。


そのメモには、『卵で栄養を取れ。』とだけ書いてある。生理は病気じゃないのに、と思わず苦笑してしまう自分がいると同時に、こんな風に気を使われたら自分の心が掻き乱されてしまうと響子は思った。


こんなことをされたら、あの頃の、優しくて大好きだった亜樹を思い出してしまう。


例え周りが何を言ったところで、亜樹の本質は変わらないはず。不幸にも結果として、過去の自分の存在が今の亜樹を作り上げてしまっただけ。

優しい亜樹は、自分の過去の罪にまで罰を与えるために響子を支えようとしているに過ぎない。だから、昨日の『ただ、水森の傍に支えが出来るまでのつなぎなんだから、俺は。』という言葉が出たとするならば、亜樹を本当の意味で解放するには


だからこそ、そのときが来たときの為にも、この同居という距離を守っていかなければいけないと響子は思った。




月曜、いきなり朝食を作らないのも変だと思い、響子は亜樹の分もやはり作った。

躊躇いながらも出来上がったことを伝える為、先週までと同じように部屋をノックしたものの返事がない。

今起こさないと…、そう思うとドアを開けるべきだろう。けれど、それは昨日心に決めたばかりの同居の距離を乱すように思える。

でも、このままだったら…。


結局、遅刻を防止するためという大義名分があるわけだからと、響子はドアを開けることにした。更には病気という可能性だって考えられる訳だから。


ドアは簡単に開いた。開閉する目的に付いているものなのだから、それは当然のことだけれども。そして、部屋の奥のベッドの上には、深い眠りの中にいるであろう亜樹がいた。


「日下部君、起きて、朝、」

響子が声を掛けると、亜樹の目が微かに瞬き、再び閉じてしまった。そこで、体を揺すろうと手を近づけた時だった、響子の手を亜樹が掴んで引き寄せたのは。


屈んでいたこともあり、バランスを崩した響子は亜樹に覆いかぶさる体勢となってしまった。

状況は違う。けれども封印したときの記憶が蘇る。


そんな混乱を他所に、亜樹は引き寄せた響子に啄ばむような優しい口付けを繰り返した。こんな口付けの記憶はない。あの時は抵抗と恐怖、そしてどう言い表したらいいか分からない今までにはなかった感情。


口付けをどれくらいしているのか?それすら分からなくなるくらい、響子の思考回路は止まった。更には、体に余計な力が入らなくなり、更に亜樹に体を預ける格好に。


そして、啄ばむ口付けは深いものへ…。

変わった瞬間だった、亜樹の意識が現実を捉えたのは。


それまで亜樹は、どこをどうしてそうなったのか全く分からない夢を見ていた。今の響子が昔の響子のように自分に声を掛け、何故か自分は響子に対し、口付けで返事をするという夢。


けれども夢にしては、やわらかい重み、そして艶かしさがある。

その艶かしさを探ろうとしたときに、これが現実だと亜樹は理解した。


舌が舌を捉えたときだった、二人の一瞬が停止したのは。



停止していた思考回路が不意に動きだし、これが世に言うディープキスだと響子は理解した。しかも、その相手は亜樹。

でも、どうしてそうなったのか?どうして、自分は抵抗出来ないのか?




「ゴメン、間違えた。」

必要以上に響子を怯えさせてはいけないと思った亜樹は、咄嗟に出てきた言葉で謝り、理由を伝えた。本当は間違えてなんかいない。響子に優しく自分の気持ちを伝えるような口付けをしたかったのは事実。



『間違えた。』

何を?、それとも誰と?

昨日はそんな間違えをするようなことをしていたの?だから、帰りが遅かったの?

亜樹が理由に使った言葉は、響子の頭の中に次々と疑問を投げかけた。



そしてひとまず謝って、落ち着きを取り戻した亜樹は自分の言ってしまった理由を後悔した。『間違えた』って何をどう間違えたのか。


夢と現実を間違えたのなら、夢の中で亜樹が響子をそういう対象としてみていることをディスクローズするようなものだ。それはまた、響子に亜樹という存在の恐怖を与えることに成りかねない。


若しくは別の女と間違えたと言ってしまったら、それこそ自分はどうしようもない人間だと告白してしまうようだし。咄嗟だったとはいえ、使えない理由を口走ってしまったことを亜樹は本当に後悔した。


更には、響子の全体重を自分の体で受け止めるという行為にも後悔した。なぜなら、この重みを離したくない自分がいるから。


けれども、離さなくてはいけない。


「本当にゴメン、立ち上がれる?」

「あ、あの、あ、わたしこそ、ゴメン、重くなかった?それに、勝手に部屋に入っちゃって、これもゴメン。でも、日下部君が起きてこなかったから。起こさなきゃって思って。」

矢継ぎ早に言葉を投げかけ、響子は起き上がり後退りをしながら部屋を出た。

部屋の扉を閉じると、先ほどの亜樹の口付けの感覚を確かめるように響子は自分の手を唇に。不思議と嫌じゃなかった。優しさが唇を通して伝わるようで。


でも、確かに亜樹は言った、『間違えた』と。

亜樹の傍から離れた今なら分かる。その言葉の目的格が特定の人物を指すであろうことは。あれは本来他の人が受けるべきものだったことも。そう思うと心に黒い感情が巣くってしまう自分がいることが響子には怖かった。



響子が部屋を出て行った後、亜樹はぼんやりと天井を眺めていた。そして唇に残る感触を今すぐに忘れるため、自分の大罪を思い起こした。けれどもそのことは、忘れるどころか、白い肌、そして胸とかえって響子の体の全てを呼び起こしてしまう。


もし、あの時響子が酔っていなかったら今頃どうなっていたのだろう?

しかし、そのお陰で響子が自分の知っていた響子のままであったことが分かったのも事実。


亜樹の唇から響子の感触が消えた頃には、どうしようもない後悔だけが胸に残った。






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