楽園のとなり

 

12


今にも雨が降り出しそうな空。見ているだけで気だるくなりそうだった。

けれどもベッドから眺めるにはちょうどかも知れない。


ベッドの上で、ボーっとしながら亜樹は今週を振り返っていた。厳密に言えば、今週の響子の様子を。

妙な表現かもしれないが、亜樹にとって響子は箱庭の中の大切な唯一の動くものなのだから。


そう言えば、昨日はここに引っ越してから一番遅い帰宅時間だった。しかも買い物袋を随分と抱えて。過去を辿っても、最近の会話の中にも買い物が好きだという内容はなかった。この生活のストレスを買い物にぶつけたのだろうか?


そして、ここに引っ越してから初めて響子から亜樹の携帯へメールがあった。そこには『思ったより遅くなってしまったので、しろにご飯をあげて下さい。お願いします。』とだけあった。

遅いと言っても、今日日の女子高校生だったら繁華街をうろついている時間だが。けれども、亜樹には心配でしょうがなかった。『駅に着いたら連絡をくれ。迎えに行くから。』と、どれだけ返信したかったか。それどころか、どうして遅いのか根本原因をどれだけ聞きたかったか。


けれど、亜樹には待つという選択肢しかなかった。意味もなくダイニングで雑誌を捲りながら。


待ち合わせには時間と場所が決まっている。でも、今日は勝手に待っているだけだから、それがいつ終わるのかは分からない。一分が重かった。その重みが積み重なり、潰れそうだった。


潰れそうな亜樹を救ってくれたのは、帰ってきた響子の姿だった。そんな感情の起伏からしても、既に亜樹は以前よりも強く響子に囚われてしまっていた。





今の会社へ移る際、月給に減がないということを説明会のときにみんなが喜んだ。形はどうあれ、規模から見れば吸収されたことに違いないのだから。


移る前はそこらへんしか見えなかったけれど、いざ移ってみると零細企業と大手企業グループの違いをまざまざと見せつけられた。なにせ福利厚生面が格別によくなったのだから。保養所は海外にまで契約のものがあるし、会社の中に医務室やらキャッシュディスペンサーまである。トイレだって広いし、化粧ポーチやら何やらを置くための棚なんかも備え付けてある。今後は産業医面談とか、とにかく今までの会社になかったことが色々あって、正直面食らった。


中でも6月に支給されたボーナスの額に驚いた。今までの会社では、0.5〜1.5ヶ月分の間を行き来しているだけだったのに、今夏は3.5。最初は何かの間違えかと思った程だった。


お陰で金銭面でも余裕がでてきた。なんで、今響子は新しい靴、鞄、ワンピース、薄手のカーディガンを袋から取り出している。いくらバーゲンシーズンとは言え、一度にこんなに買うなんて思い切ってみたものだ。

でも、昨日こんなに買ってしまったのにはちゃんとした理由がある。

曇り空を眺めながら、新しい靴や鞄をおろすのだから雨にはなって欲しくないと響子は思った。


もう一つ、出来れば今日は亜樹には会いたくない。同じ屋根の下にいるのだからかなり難しい願いだけれど。


そしてそれは叶わなかった。


雅徳との待ち合わせは14時。それに合わせて出ようとしたその矢先、玄関に向かうときに部屋からでてきた亜樹と鉢合わせた。


「出掛けんの?」

「うん。あ、でも今日はしろにはカリカリ多めに入れておいたから。」

響子は意識していなかったが、発せられた内容は暗に帰りが遅いことを亜樹に知らしめた。服装も今日の外出が特別であることを物語っている。


喉もとまで出掛かった、『誰と会うの?』という言葉を押し殺し、亜樹は『雨、降らないといいな。』とポツリと言った。

聞き取り辛かったその言葉は何故か響子の心を乱した。

「ダメかも。」

「え、何?」

「雨、降るかもね。」

「そっかぁ?、まあ時期も時期だから、傘、持ってけよ。」

「日下部君、わたし…、じゃあ行ってくるね。」




13時50分、予定通り待ち合わせ場所に着いた響子は空を見上げた。

亜樹が願ってくれたように雨が降らなければ、もう一度自分の気持ちに従ってみよう。降ったら…、それが現実。

朝だって、結局最後の最後に亜樹に出くわしてしてまった。雨だって一日の終わりまでにはきっと降る。自分の願いは叶わないのだから、と響子は思った。


それから間も無くして雅徳が現れた。

「早かったんですね。どうやら待たせてしまったようだ。」

「そんなに待っていませんよ。ただ、折角御厨さんにお声を掛けていただいたので、お待たせしないようにしただけですよ。」


微笑む響子は確信した。会社というフィルターがなくなった雅徳は、響子が思い描いていたあの頃の亜樹が大人になった姿だったと。


大学に入学してからも、人間の当たり前の感情として恋はしてきた。会話をしていく中で好きになる人、密かに心の中だけで好きになる人。でも、いつも最終的に自分自身が作り上げているその時の亜樹とその人を比べていた。

自分の片隅に亜樹への思いを宿すことで、いつかまた偶然亜樹に出会えるのではないかという期待を潜在意識として持ちながら。


理想の亜樹の雰囲気を持つ雅徳、そして本質はきっと昔のままなのに変わってしまった亜樹。どうして今になって、この両者が自分の前に現れてしまったのか、それも近くで。あまりにも残酷なタイミングだと響子は感じずにはいられなかった。



美術館を選んだのは正解だろう、と響子の横顔を眺めらながら雅徳は思った。ただ絵を見上げる響子の白い首筋は、正解とは言いがたかったが。映画の趣味は分からなかったし、いきなり食事ではそれだけになってしまう。こうして同じ空間で同じ時間をゆったりと共有する、なんとも表現し難い充実感だった。


美術館をでると、微かに雨が降り始めていた。

「最近の天気予報は当たりませんね。。傘は持ってきましたか?」

「はい、必ず降ると思っていましたから。」

そう言って折り畳み傘を見せる響子の笑顔は何故か悲しそうに雅徳には映った。




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