楽園のとなり

 

13



12月には27歳になるというのに、こんな経験すらまともになくて緊張してしまう自分が可笑しかった。


大学時代の合コン、ゼミの飲み会は居酒屋。もしくはそれが小奇麗になった程度の場所。

卒業してから何度か食事に誘ってくれた同じゼミの男の子と行った場所はそれなりのレストランだと思っていた。


でも…、今いる場所は確実に格式が違う。食事をすると聞いてはいたけど、こんなお高そうなところだとは思わなかった。

そして、テーブルに置かれたのは飲み物のリストだけ。


「水森さん、アルコールは駄目でしたよね?」

「少しなら大丈夫なんですけど。」

「じゃあ、度数が抑え目の白にしましょう。」

少しするとワインのボトルが運ばれて、雅徳のグラスにのみ少量注がれた。


口に含んだ雅徳が飲みきり、「では、これで。」と言葉を発すると改めて二つのグラスにワインが。それから少しして、頼んでもいないのに前菜が運ばれてきた。


響子が不思議に思っていると、雅徳が料理も予約時にオーダーしていたことを教えてくれた。



少しのアルコールと美味しい料理に、響子の緊張もだんだんと薄れていった。何より会うまでは会話がちゃんと続くのか心配していたが、雅徳は会話においてもリードしてくれる。


ただ、最後に家まで送ると言われたときには正直どうすればいいのか頭が真っ白になった。何しろ振分式とはいえ、亜樹と同じところにすんでいるのだから。

「水森さん、別に食事をしたからって部屋へ押しかけて、何かしようなんて思っているわけではありませんよ。」

響子の沈黙を、雅徳は違う意味に取ったようだった。それには些か困ってしまった響子は、慌てて普段よりも大きな声、力を込めて否定を。


「違うんです。御厨さんがそんな人だなんて思っていません!」

「そんなふうに思いっきり否定されると、それはそれで困りますね。僕もただの男の一人には変わりありませんから。」

言葉というのは不思議で、強く否定されるとそれをまた否定したくなる。こと男女間の機微には、と雅徳は久しぶりにそこにある面白さを感じた。


恋愛という言葉を自分の身近に感じられていたのは、確か今の響子くらいの歳までだったような気がする。それから6年、その必要性を感じることはなかった。違う言い方をすれば、避けていた。




高校の時に付き合っていた女性とは、結婚を考えていた。10代の恋は常に脆弱性を含んでいて、それを隠すかのように若さが表に出る。いつも二人でいる為に、同じ大学を受けることを決め、必死に勉強をした。

勉強をすれば、同じ大学へ行けると決め付けて。



— 現実は違った。しかも、残酷なほど —


試験当日、待ち合わせ場所に時間になっても彼女は現れなかった。今のように携帯電話など持ち合わせていない時代、雅徳にはどうしようもなかったのを覚えている。

その日の夜、彼女の家へ電話をすると彼女がよりによって、この日病気の為入院したことが告げられた。


病気の経過は良かったようで、随分と線が細くはなっていたが卒業式には間に合った。

「まー君、1年後輩になっちゃうけど来年は受かるから。」

彼女が卒業式後に言った言葉。

それに対し、雅徳はキスでそれに応えた。当時彼女とはキスまでの関係だったので、それがyesでもあり、待っているという意思でもあった。


受験から解放され、足を踏み入れた大学という場所はとても刺激的だった。色々な人間との出会い、そしてつながり。サークル活動、自分が今まで訪れたこともない地域から来た友人。全てが新鮮だった。その新鮮さの中で、過去だけが色を失う。


気が付けば浪人中の彼女との連絡回数は減りだしていた。春はなれない環境のため、夏はサークルの合宿や準備、秋には学園祭、大学という新しい環境はいくらでも雅徳に『理由』をくれた。


そして女性との刺激的な付き合い方。その快楽を若い体が覚えてしまえば、求めずにはいられなくなる。会ったところでキスを交わすだけの彼女よりも、深い快楽を求め合うことができる女性は当時の雅徳にとって彼女よりも『上』だった。


卒業式後の言葉通り、彼女は1年遅れて同じ大学に入学した。大学構内で見た彼女は受験疲れのせいか、以前より痩せていた。

「真美子、受験勉強のし過ぎで外に出てなかっただろ。色、白くなったな。」

「そお?でも、これからまー君と色々行きたい場所があるから、また焼けるよ。」


それから少したったころ、雅徳は彼女と体の関係を持とうとした。今まで待ったことを思えば、そうなることが当然とばかりに。しかし、彼女はそれを受け入れようとはしなかった。その頃からかもしれない、以前のなかなか会えなかった状況に加え、関係がギクシャクし始めたのは。


季節が秋へと変わるころには、雅徳から彼女への連絡は途絶えた。彼女からの連絡はあるものの。そして他の女性との関係は日々深くなっていった。

自然消滅、ずるいのかもしれないが自分から連絡をしないことがそれへの近道に思えた。



冬の終わり、彼女はこの世を去った。秋から一度も大学へ来ることなく。後から教えてもらったことだったが、彼女の体を蝕んだのは白血病。そして、色々な治療の末症状が落ち着いたのも束の間、再発した。更には肺炎を起こし、最後はあっけなく息を引き取ったとのことだった。


葬儀の後、彼女の家族から雅徳に手渡された手紙、そこには彼女からの感謝、そして永遠の別れに対する謝罪が記されていた。『今までありがとう、楽しかった。そして、ごめんなさい。まー君に、これから楽しいことがいっぱいありますように。』


自然消滅なんて生易しいものではなかった、最後は。

そして、自分が病気の再発を手助けしてしまった気がした。高校の頃のように優しくはなかった自分。そして、同じ構内で見せつけるかのように他の女性と親しげに歩いた日々。体の関係を拒否されてからの視線、態度。どれをとっても、彼女を追い込んだに違いない。


そして、関係を持つことを拒否したのも彼女の女性としてのプライドだったと分かる。自分の貧弱になってしまった体、背部にある治療の跡を決して見せたくなかったんだと。

全てが繋がり、目からは涙が溢れ、彼女から解放された瞬間、色を失くした過去が雅徳を覆った。


それから逃げるかのように、雅徳の女性関係は派手に。けれども覚えたてのときのような快楽は得られなくなっていった。

女性の体を前にやることだけはやる。確かに気持ちよさはあるし、開放感も伴う。でも、少しするとそこに気持ちがないことに気付き、全てを客観的に見下している自分がいた。


社会にでてからもそれは同じ。合コンで自分に気がある素振りを見せる女性には片っ端から手を出した。

一時の開放感、永遠の闇。そしてその闇からの出口はどこにもなかった。


自分に、そして無駄に過ぎて行く日々に嫌気がさしていた頃、雅徳を見るに見かねた高校からの友人が一人の女性を紹介してくれた。

友人の手前、さすがに体の関係だけ持ってすぐに別れることは出来ない。だから、会えば食事をしながら話をする。


そんな日々が過ぎた頃、気付けばそのことが楽しいと思うようになっていた。相手との会話を楽しみ、相手を知り自分を知ってもらう。そんな当たり前のこと。そしてそれすら忘れていた自分。

『まー君に、これから楽しいことがいっぱいありますように。』あの言葉は嫌味ではなく、呪縛でもなく、彼女の心からの願い。

優しくて素直だった彼女。今なら分かる、彼女に意識があったときまでは、きっと雅徳を想いその後のことも心配していたであろうことが。


のんびりとした付き合いから始まった彼女、角田麻子。数ヶ月するうちには、かけがえのない人になっていた。心から愛し、愛される。雅徳にもようやく心の充実感を得られる日々が訪れた。


二人が付き合って1年と数ヶ月が経過したころ、雅徳は麻子が親の勧めで婚約をしたことを知らされた。青天の霹靂。最初は麻子が何を言っているのか分からないくらいだった。


「ごめんなさい。あなたのことはとっても好き。でも、好きだけじゃあ解決できないこともあるでしょ。」

麻子の家は資産家で、生活水準も高い。それと同じ水準で生活をするには雅徳の所得では確かに厳しい。

こんな現実的なことなど関係なかった頃、真美子との結婚を考えることができた自分がいかに純粋、否、単純だったか。二回目の本当の恋愛は、大人の判断で簡単に消え去った。勿論、麻子から切り出されなければ言うはずだった雅徳の言葉も。


その後は、ただ仕事に没頭した。そして人よりちょっと早めの出世。

けれども昇給しても、麻子が生活に必要と考えていた額よりは下だった。何度目かの昇給のときには、麻子という文字すら頭を過ぎることはなくなっていた。


響子を初めて見たときに、自分の心が捕らわれてしまいそうな予感がした。もう避けられないと。そして今、目の前で見せる少し困ったような表情、もっと困らせたいし、ホッとした表情にも戻したい。こんな回りくどい表現ではなく、ストレートに言ってしまえば『全てが欲しい』。


「そうだ、しろに水森さんを返さないといけない時間になりましたね。その前に、」

しろという言葉に気が抜けた響子の体を雅徳が引き寄せ抱き締めた。

そして響子の耳元に『好きだ。』という呟きが届いた。



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