楽園のとなり

 

14



今更何を馬鹿げたことを思うのか…、けれども人を好きになることがこんなにも苦しいとは思わなかった。

そして、手に届きそうな距離が与える苦痛は計り知れない。

近くて遠い、それが現実。


土曜日、家に帰ってきてからの響子はどことなく落ち着かないようだった。『どうかした?』と聞いたところで『そうかな?』とはぐらかされるだけ。でも、外出前の姿からすると、恐らく誰かと会って、何かあったことは容易に想像がつく。気になるのはその『何か』が『何』かだ。そして、その『何か』を投げかけたのが『誰』か?

考えれば考える程、亜樹の心の中はざわめいていった。





土曜、日曜に引き続き、月曜も小雨が降っていた。響子はマンションをでたところで、大きな一息を吐き出した。まるで息だけでなく、溜まっていた何かも一緒に吐き出すように。

亜樹の前で大きな溜め息などついてしまえば、それだけで亜樹を心配させてしまう。だから、こういう行為もこっそり行なわなくてはいけない。


湿度と生暖かさ、本格的な夏が近づく梅雨の不快指数は高まる一方。そして響子の心の不安定さも高まる一方だった。たとえこんなに不快な中でも、ここに留まれることのほうが気楽に思える。

会社を前にして響子はそんなことを思った。


土曜の夜、食事の後に雅徳に抱き締められた。そして、いつもの雅徳とは思えない低く響く声で囁かれた。その声が発した言葉はとても短い。が故に、聞き間違えてはいないはず。雅徳は確かに『好きだ』と言った。


どうしてそうしたのかは良く分からない。けれども響子はそこから、雅徳から、逃げるように立ち去った。その場から逃げたとしても、こうして月曜はやってくるのに。


けれども一つ、救われたことがある。結果的には雅徳の送るという申し出を回避した。スマートな方法と言えなかったが。




自分を男として信用しすぎて欲しくない。そしてそう言うつもりがあるから食事に誘ったことを伝えたかった。

手がでて抱き締めてしまったのは予定外だったとは言え。


土曜の響子との別れ際のことを思い返すと、今日と言う日はとても重要だと雅徳は認識した。男に免疫のなさそうな彼女のことだから、自分を視界に留めれば動揺するだろう。そしてそこでどう対応するかが次を占う。そんなことを思えば思うほど、変な重圧を雅徳は感じずにはいられなかった。


そしてその時は会社に到着してすぐに訪れた。エレベーターホールで向かいの箱から響子が降りてきた。


雅徳の予想に反して、響子の対応はいつもと変わらない。視線を外すこともなく、表情もいつもと同じ。


「おはようございます。」

「あ、おはよう。」

今まで通り挨拶を交わし、特にそれ以上の言葉はない。

逆に雅徳の方が変な緊張を感じてしまうほどだった。なぜなら同じ場所へ向かうので響子が後ろからついてくる。顔が見えない分、何も感じ取ることが出来ない。

不安という感情はこんなにも簡単に自分の中に入り込み、増長していくのだと雅徳は思った。


自席までやってきてようやく自然な形で振り返ると、響子が周囲の同僚と言葉を交わしているようだった。

今までは自然な形で見ていた彼女。でも、隠しようのない気持ちをストレートに伝えた今では、もうその必要はない。自分の心が求めるがまま、彼女を見つめればいい。この揺るがない気持ちで。好きという言葉を口にしてからは、一層雅徳は響子への気持ちを認識することができたのだから。




声が上擦ることなく出ていたか不安に思いながら、響子は雅徳の後ろを付いて歩いた。エレベーターホールで出くわした雅徳はすぐに響子の視界の中へ。どうしてか、多くの人の中でもすぐに分かった。まるで高校の時に亜樹ならば人ごみの中でも見分けられたように。


もしかしたら自分自身が気付く前に、心は雅徳をそう言う対象として見始めているのだろうか。…分からない。それともあの低く響く囁きが呪文のように自分を支配してしまったとでも言うのだろうか。

どちらにしろ、亜樹を解放するために踏み出そうとしていたことは事実。それが思ったより早く進みだしたにすぎない。


以前の職場での倒産騒ぎや吸収合併、そして亜樹との再会と体の関係、更には同居。…疲れているのは事実。

雅徳との時間を取れば、もしかしたら今の状況からの最善の出口が見えるのかもしれないと響子は思った。


部署までの短い時間、雅徳が響子へ振り返ることはなかった。実際どういう態度を取るべきなのか分からなかった響子にはありがたいことだったが。

そして、席に着き周囲の人と簡単な挨拶を交わした。いつもはそこで終わり。

けれども、この日に限って何故か雅徳の方へ視線が動いてしまった。


だから、その優しい眼差しを捉えた時心がざわめいた。

そしてもう一人、入り口から響子の姿を捉えた亜樹は気が付いてしまった。響子の視線が雅徳を捉え、そして囚われようとしているのを。


瞬時に全てが繋がった。土曜、響子が会っていたのは自分の上司であるその人であろうことが。仕事は出来るし、周りの状況を的確に判断し次を考えていける雅徳。更には、浮いた噂もない。深く付き合ったことはないが、知る限りでは性格だっていい。


何より響子の日常から考えてみても、自分との生活の中で誰かと新たに出会う確率は低い。とすれば、土曜に会った人物は既存の知り合い、もしくは今の会社に移ってからの人物くらいだろう。


現状、そして瞬時に行なわれた二人の視線のやり取り、それは亜樹の推測を裏付けるには十分なことだった。


響子への罪を償う、これは今の生活の土台。けれど、一緒に生活をしてみたものの、具体的には何も出来ていない。それどころか、響子の体、唇を思い出し、欲望が亜樹の心をそして体を支配しようとする現実もある。何か大きな間違えが起こる前に手を打たなくてはいけない。


ゆっくりと、自分の席に向かいながら亜樹は響子の顔をみた。気付けば、好きなんて言葉では言い表せない存在になっていた。

守りたい。でも、どうやって?どうすることで彼女を守り続けられるのか?


自分が愛して止まない彼女の顔が二度と翳らないように。




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