楽園のとなり

 

16



世の中に平等などほとんどない。学力だって、財力だって、寿命だって、就職だって。

ただ、強いて言うならば同じ時を生きている人間に流れる時間、時計の針の進み方。



時間は同じだけ、確かに二人の間に流れた。けれど流れた時間は同じでも、平等な流れ方とはこれも言えない。

あれから亜樹には恋愛のプロセス、否、男女間の駆け引きを理解するには十分なだけ時間が流れた。それに引きかえ、響子はそんな経験をすることなく過ごしてきた。



「日下部君、どうしたの、何かいつもの日下部君とは違う…」

「ああ、違う。分かったから。」

「分かった、何が?」


後ろにはベッド、顔は亜樹の肩から伸びた両腕に挟まれて響子の心臓は聞こえてしまうのではないかと思えるくらい激しく鼓動した。

そして、亜樹の顔までの距離は、亜樹の腕の長さ分。否応なしに、封印したあの日がフラッシュバックする。


…日下部君、どうしたの、」

響子の声は恐怖を含み、心持震えている。声だけでなく、表情からもそれは亜樹に伝わっていた。

「水森を怖がらせたり、苦しめるつもりは更更ない。ただ、分かって欲しい。聞こえただろ、さっき言ったこと。水森が好きでしょうがない。」


響子が過去に想像していた愛情の伝え方は、お互いが見つめ合って優しい顔でその言葉を伝え合うというもの。当時読んでいたコミック雑誌はみんなそんなようなものだったから、だからそれが全てだった。あの時の亜樹からの冷たい視線のようなものではなく。


それが今は、一方は怯えた表情でその言葉を聞き、もう一方は悲痛な面持ちでその言葉を発している。


「そんなに怖がらないで…。昔はどう伝えればいいか分からなかった。そして、最近ではそれが無意味なものにしか思えなくなっていた。だけど、こうして水森と暮らすうちに分かってきたんだ。本当に伝えたい相手にはちゃんと自分の気持ちを言わなくてはいけない時があるって。そうしないと、手遅れになるって。これ以上もう間違え続けるのは嫌だ。」


切なげに言葉を繋ぎながらも、亜樹の目は真剣そのものであることが響子にも分かった。そして、亜樹がこの後何を欲しているのかも。

更には、抵抗するには自分の格好があまりにも不利だということも分かっている。それに、抑えきれない恐怖が募ってきているのも分かる。


掛けられる言葉も、見つめる眼差しも、もう記憶の奥へしまったあのときとはきっと違うだろう。でも、怖い。それは変えることが出来ない事実。


その恐怖心の後ろ側で、もう一つの感情も見え隠れしている。亜樹と今の生活を始めてからというもの、亜樹は驚く程気を使って生活をしてくれていた。高校の時の、否、本来の亜樹はきっと優しいはず。だとしたら、自分の犯した行為と良心の間で、その優しさが故に苦しんでいるだろう。色々な不幸なことが重なったことは歪めない。けれどそこから解き放つことができるのは自分以外にいないと何故か響子は思った。


そして、このままでは自分はこの行為に縛られ続けることも事実だろう。愛情を表現するのは言葉だけではない。その言葉から行為へ移ることは、当然と言えば当然。避けては通れない。


亜樹を許したい、そして自分を解放したい。

それを叶えるには…、それを叶えるには?




響子が欲しかった。

雅徳と響子の関係を勘繰る自分自身によって、亜樹の理性は崩壊寸前だった。誰か他の人間に響子を取られるくらいならば、どんなに汚い手を使ったとしても自分のものにしてしまえばいいと思うほど。それでも、そんな本能を理性は抑える。その行為が、体を繋げたとしても心を決定的に離すことにつながると。


本当に欲しいのは何か?

体?心?…そんなものは考えなくたって分かる。

心が繋がるから、その先に進むのだろう、多くの場合。

だけれども、亜樹には自信があった。あまり誇れたものではないが…、セックスという遊びの中で女をいかせ、自分の体に縛り付けるという…。

あの時が初めてだった響子の体に、女としての悦びを与え開花させるのはそんなに大変なことではないだろう。寧ろ、想像するだけで本能が凶暴性を帯びる。

響子が体から心を求めるようになるかもしれない。

でも、それは


それともこの生活を始めるにあたって心に決めたように、響子の為にこのまま雅徳に向かっていくであろう気持ちを後押しするのがいいのか。

この選択肢では響子を手に入れることは出来ない。分かっている。けれど、あの全てを負に向かわせた誤選択から忌々しいレイプまでの自分を、響子に間違えだったと思ってもらう助けにはなるかもしれない。


理性が途切れるのは秒読み段階だっただろう。だから、たまたまあった沙耶佳から電話にのった。沙耶佳とは、亜樹が秘書課の笹田友香と付き合っている時から続いている。お互い欠けている何かを体で埋めあう仲だった。そして、お互いそれを見透かしている。

けれどもそのことは口にしない、それが大人が快楽を得る遊びをするルールだと知っているから。


だから何も考えず楽しめる。今日も何度となく激しく体を絡めあい、もう性欲が尽きたと思った。それなのに、バスルームを出てきた響子の姿はいとも容易くそれを覆した。


こうして怯える響子の姿を見ながら、衝動的にここまで連れてきてしまった亜樹。それは性欲というより、誰にも奪われたくないという独占欲が顔を覗かせたから。


虫がいい話だろうが、響子にとって自分はあの頃のままでありたい。

それ以上に、今の気持ち、そして自分を受け入れてもらいたい。


色々な思いが交錯するなか、亜樹には好きだという言葉意外何も思い浮かばなくなった。更には、その言葉を音にすることも。

ただ、唇にその想いをのせて伝えることしか。


唇が辿り着いてしまうと、響子の体との間に隙間はなくなった。そして、まだ湿り気が残る髪にも伝わるようにゆっくりと指を通した。

気持ちだけではなく、響子から恐怖が薄れることを祈りながら何度となく触れるだけのキスを繰り返した。




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