楽園のとなり
楽園のとなり
19
木曜同様、金曜そして土曜と、響子は朝を亜樹のベッドの上で迎えた。寝起きがあまり良くない亜樹が、不思議と響子よりも早く起きているようで、目を開くとそこには優しい笑顔がある。そう、響子が大好きだった亜樹の笑顔。
響子が覚醒したのを確認すると、亜樹は軽く唇を落とす。その後はその唇が縦横無尽に響子の体を味わう。
「今日はこのまま一日中響子を独占してもいい?」
亜樹が顔を上げて伺いを立てる。
「ダメ、シロにご飯、あげなきゃ。」
「大丈夫。もう皿にカリカリ入れてきたから。だから、」
そう言われてしまうと、響子がベッドを起き上がる理由がなくなる。それを見透かすかのように、少し口角を上げて笑みを浮かべた亜樹が響子の言葉を塞ぐように口付けを始めた。
三晩合わせた肌。それは、響子の体に容易に変化を与えた。亜樹は優しく、かつ的確に響子の体を愛撫していく。響子の息は上がり、背筋にゾクゾクとした何かが走る。亜樹の唇、舌が臍周りを彷徨う頃には腰が浮き始めてしまう。
「いい?」
頃合を見計らうかのように、亜樹が発する言葉に響子は頷くしかなかった。それは二人にとって、最近の全てを洗い流す甘い波のようで、響子はその穏やかな心地よさに身をまかせ、亜樹は体が溶けて透明になるような気分だった。
不慣れだと知りつつ何度も求めてしまうのは、ようやく手に入れたという安堵からなのだろうか。亜樹は疲れから再び眠りに落ちた響子の柔らかな肌に触れながら想いを廻らせた。
このまま明日、明後日もこの関係が続いて、それが永遠になればいいと思いながら。
響子は不思議でしょうがなかった。目を覚ました時に隣に亜樹がいることが。そして、知らず知らずのうちに亜樹の肌を求め、高揚してしまう自分が。体に何もまとっていないのに、恥ずかしいという感情よりも亜樹の肌を直接感じられることに対する喜びが勝ることが。
そう、そしてもっと不思議なことが頭を掠める。それは雅徳の言葉。何の返事もしないのは、雅徳を時間を響子が止めてしまっていることを意味するように思える。
響子はただ思った。好きな人間との結びつきは幸福感を与えてくれると。今となっては出来るだけ早く雅徳の気持ちに応えられないことを伝えた方が良い。響子に応える気がない以上、雅徳の時間をいたずらにひっぱるのは狡猾な女のようだ。
「どうかした?」
「ううん、日下部君、そろそろご飯にしよっか。」
月曜日、響子は懐かしい顔にランチに誘われた。
「晴れている日はここ、いいでしょ?」
以前の会社からの2つ上の同僚、桜井可南子はそう言いながら微笑んだ。
「実はね、響子ちゃんに相談があって。ここ、いい場所だけど人があんまり来ないから。」
確かに可南子が言う通り会社の屋上は解放的で人も少なくのんびりするには良い場所だった。
「あのさ、最近何回か篠原君と食事に行っててね、話も合うし、良い人だし、だから一緒にいて楽しいし、」
「え、可南さんと篠原君が、」
「声大きいよ…」
「ごめんなさい。」
「でね、次の次の週末一緒に一泊で旅行へ行こうって誘われて…」
「え!、あ、そうなんですか、」
「うん。ね、篠原君って響子ちゃんと同期だけど何も聞いてない?」
「ぜんぜん。」
「そっかあ、でもやっぱり一泊ってことはそういうことだよね。」
「そういうって?」
「だから…えっち、」
「……」
「そんな赤くならないでよ。言ったわたしの方が恥ずかしくなるじゃない。でも、きっとわたしの返事次第で篠原君は告白してくれるってことだよね。」
「告白…」
「そ、だってまだわたし達、楽しく時間を一緒に過ごすとっても仲の良い友達止まりだもん。」
そう言えばと、響子は時間軸を辿る。自分自身も高校の時はまず気持ちを伝えた。つい先日の雅徳もそうだった。
では亜樹は?今思い返すとあの日の亜樹は衝動に駆られてるようだった。行為の間は愛の言葉を色々と囁いてくれたが…。
「どうかした?」
「ううん、確かに篠原君は下準備が得意だから可南さんの返事を待って言葉にしてくれるんじゃないかなと思って。」
「そっかぁ、そうだよね、そういう感じだよね。篠原君は。」
それから二人は今の部署のことや思いのほか多かったボーナスの話に花を咲かせた。
午後、響子はハンカチを落としたことに気が付いた。思い当たるのは屋上。そこで気分転換を兼ねて再び屋上に向かうと、そこには先客が。
この会社で女子社員が制服を着ているのは、受付と秘書課。先客の制服は秘書課のものだった。
紫煙をくゆるがせ響子に背を向け話に夢中になっている。邪魔をしないようにと、響子は静かに辺りを見渡しハンカチを拾った。
席を立ったついでにと、響子は屋上近くの人があまり立ち寄らないトイレで一息つくことにした。週末考えたように雅徳に返事をするならば早いほうがいいい。雅徳は夕方まで外出だが、それ以降は外出も会議もない。少し時間の都合をつけてもらうには丁度いいように思える。響子は個室に入り頭の整理を始めた。
「うん、先週の水曜日も会ってた。」
「え、まだ続いてるんだ。」
「続くも何も、友達の縁は切れないでしょ。」
「だけど、バレたらどうするのよ。」
「バレないって。亜樹は体に跡を残すようなことはしないから。あっちだけじゃなくて、そういうことも上手いから。」
「日下部さんも普段あんなにポーカーフェイスなのに、しっかりやることはやってるんだ。」
「そ、しっかりとね。」
「婚約者にバレないように気をつけなさいよ。」
「大丈夫。それより気持ち良いえっちしたければ、亜樹は最高。誘ってみれば。」
「もう、モラルの欠片もないんだから。」
「そもそも、友香のことが気に入らないから、付き合っているの知ってて声を掛けろって言ったの果歩じゃない。」
「だけど最終的に、別れさせたのは沙耶佳でしょ。」
「そんなことないって。ただ亜樹に友香がかなりお熱だって教えてあげただけだってば。ついでに亜樹となら結婚してもいいって言ってるってね。」
「悪魔。だって沙耶佳、日下部さんが女に執着されたり、所有物のように振舞われたりするのが嫌いそうってすぐに見抜いていたじゃない。」
「ふふ、でも最終的にあの能無しコネ入社に泣きを見せられたからいいじゃない。」
「まあね、しかも仕事が出来る将来有望株に振られた後、自分が見下していた派遣社員にすっごい良い結婚が決まるなんてね。」
「ほんと、可笑しい。ん、そろそろ戻らないと。専務達の会議が終わる。」
響子はただトイレの中でじっとしていた。彼女達は恐らく響子の存在には気付かず、化粧スペースで小声で話していたのだろう。二人が交互に苗字と名前を言うので、嫌でも誰のことか気付いてしまった。途中でどれだけ耳を塞ぎたかったことか。
その場で動けずにいた響子の頬を涙が伝った。