楽園のとなり

 

20




聞きたくなかった話。けれども会話の内容が脳裏に焼き付いてしまっている。水曜、それは亜樹が響子と体を重ねた日。


亜樹は響子とそうなる前に沙耶佳とベッドを共にしていたらしい。響子があんな格好をしていたが故に亜樹は衝動に身をまかせたのだろうか?先ほどの話からは、亜樹が体の関係を持つことに対して何のモラルも持ち合わせていないことが窺えた。むしろそれだけの関係を好む。そして相手が本気になるとピリオドを打つ。だから友香という人と別れた。



重い足取りで乗ったエレベータの中で頭を過ぎるのは、ただ家へ帰りたくないという思い。いや、亜樹と二人の空間を避けたいということだった。幸いにも亜樹は昼前からの外出で午後社内で顔を合わすことはない。午前中は少し残念に思えたことが今はとても嬉しい。人間の気持ちは一枚のレンズが加わることで、こうも大きく変わるのだと響子は感じた。では、逆に…亜樹に対する気持ちを翳らせてしまったレンズを取り除けば元に戻れるのだろうか?


そもそも、亜樹がこうも男女関係に堕落したのにはどんな理由・出来事があったのだろうか?こうなるまでには、それ相応の理由があったのかもしれない。けれども、亜樹が自分をしっかり持っていればどこかで歯止めがかけられたのではないだろうかとも思える。


それまで、あんなことがあったにせよ、亜樹に対して心のどこかで優しさを忘れたことが響子にはなかった。

仕組まれたとは言え、高校の時の事が切欠だと亜樹は言っていた。でも、響子にちゃんと聞いてくれていたのなら状況は大きく変わっていたに違いない。現実を直視することが出来なかったが故に、質問すら出来なかった亜樹。

もっと強ければ…、と響子は思った。


あの頃の亜樹に強さがあれば…。結局強さを持ち合わせていなかった亜樹は快楽に溺れるだけ溺れ、相手の気持ちから逃げ続ける道を選び続けた。

響子の頭の中を色々な考えが過ぎっていった。席に戻って仕事に集中しようとしても…。


夕方、空が急に翳り始めた。まるで響子の心の中を反映するように。このまま雨が窓を叩きつけるのは時間の問題だろう。

空にすら自分の心の中を覗かれた気分だった。

そう言えば、雅徳と初めて待ち合わせをしたときも、こんな空だったような気がする。あの時は、今にも降りそうな雨に響子の気持ちを委ねた。重い雲、そして梅雨なのに、雨が降らないことに望を掛けた自分がいかに逃げ腰だったか窺える。


逃げてはいけない。


響子は強くあろうと思った。勝手に全てのストーリーを作り上げてしまったら、それは亜樹の二の舞になり兼ねない。物事を一側面からのみ見るのは良くない。今は今日聞いてしまった話が故にフィルターがかかった目で亜樹を見ようとしている。亜樹の話を聞いた上で、判断しなくては。




窓を大粒の雨が打ちつける頃には、終業時間が近づいていた。ただ、人事と経理への書類提出が重なったこの日、響子は残業することに。亜樹と向き合おうと決めたにも関わらず、会社に残る理由があって良かったと思わずにはいられなかった。


19時を過ぎた頃、予定をだいぶ過ぎて雅徳が帰社した。夕方より強まってきた雨脚のせいか、それともただの偶然か、二人の周囲に人気はほとんどない。

雅徳は響子を視界に留めると、自分の席に向かうより先に近づき声を掛けた。遠くにいる人に雅徳の声は聞こえないだろう。そして二人は同じグループの上司と部下なのだから話しているところを見られても何の不都合もない。


「まだ残っていたんですか?」

その一言に、響子は雅徳があまり残業をしないことを助長しているからだと思い、あと少しで終わることを伝えた。


「時間も時間だし、どこかで夕食でも食べていきませんか?僕もすぐに終わりますから。」

午前中の響子だったら、雅徳に自分の気持ちを伝える良い機会だとこの申し出を受けたかもしれない。けれど今は違う。亜樹と向き合う時間を後に送るために雅徳に肯定の返事をした。



二人が会社を後にしたのは、それから20分もかからないかった。


「雨が一段と強くなってきましたね。」

「はい、お昼までは、お天気良かったのに、」

足元を気にする響子のために、雅徳は大通りに出るとタクシーを停めた。恐縮する響子を乗せると、雅徳は運転手に通りと交差点の名前を。

目的地に着くと雅徳は裏通りにある小さな洋食屋へ向かった。


小さい店は雨のせいかそんなには混んでいなかった。そこで雅徳は顔なじみであろう店主に奥の席をリクエストした。

雅徳は意図的に奥の席へ。そうすることで雅徳の後ろは壁。即ち、響子の視界には雅徳と壁しか入らないということになる。


雨脚が強くなりだしたときには、会社へ持ち帰らなくてはいけない重要書類があったことを恨めしく思った。けれども、会社へ戻ったときそこに響子がいたことで全てが吹き飛んだ。足は真っ直ぐ響子の元へ。空から落ちる雨、それすら味方につけた気分だった。更には響子からの返事はYes。


雅徳はここで響子から返事、いや良い返事を貰おうと思った。そこには多少の狡さがあるとしても。人生、ビジネス、恋愛、どれをとっても雅徳の方が経験はある。


食事の間は当たり障りのない話が繰り返された。その会話の下で響子は雅徳のこの大人な対応、物言いが自分を落ち着かせると感覚的に理解した。


店を出ると雨は引き続き激しく降り続いていた。

雅徳には二つの選択肢が。


一つは雨が弱く、もしくは止んでいた場合。もう一つは今のように激しく降り続いていた場合。そして後者の方が都合は良かった。ここでも空は雅徳に味方してくれている。雅徳は用意していた言葉を響子に伝えた。


「ひどい雨ですね。送っていきますよ。」

食事の時の雰囲気そのまま、流れるような言葉に、響子は思わず頷きそうになった。

「あのぉ、実は、わたし、引越したんです。友達のところへ。」

嘘は言っていない。事実、引っ越した。亜樹とは過去において友達と言える関係だったであろうし。それに、雅徳はあまりにも自然に送ってくれると言ったが、ご馳走してもらった上にそこまでしてもらったら


「駅から前よりも近くなったんです。だから、」

「しかし雨はまだ激しいし、止む気配もない。どうせ、僕はタクシーを拾うつもりだったから、送っていきますよ。」

「そんな、今日もご馳走していただいているのに。」

「でも、一人で乗るよりは二人の方が有効利用だと思いませんか?」

そう言われてしまうと、その通りだと思える。それに、このまま雨の中で立ち止まっているのも悪い。


二人が大通りへ出ようとしたとき、細い路地を一台の車が通り過ぎた。車は大きな水飛沫を。

「きゃ、」

今まで降り続けた雨のせいで、響子が浴びた水量は思いの外多かった。




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