楽園のとなり

 



雅徳を駅まで送り、アパートに戻ってきた響子は目の前の人物を見て卒倒しそうになった。


「どうして、日下部君がここに…。」

「それよりどうして土曜の昼下がりに主任が水森のアパートからでてきたんだよ?」

「日下部君には関係ないことでしょ。」

亜樹の剣幕にたじろぎながらも、負けないように言葉を続ける。

「関係ある。」

憮然とする亜樹の普段より大きめな声に、響子は周りが気になってしまう。

けれどその雰囲気から、帰るようにお願いしても無理なことが分かる。


「ここじゃあちょっと困るから、駅前のカフェでも行かない?」

「イヤだ。主任は入ってよくてどうして俺はダメなんだよ。」

「御厨さんとはただ色々話をしただけ。御厨さんは日下部君みたいな人じゃないから。」

その言葉に亜樹は一瞬視線を落としたものの、食い下がることなく言葉を続けた。

「約束する、俺もただ話をしたいだけなんだ。どこでどうボタンを掛け違えたのか説明させてもらいたい。そして何より今後のことを話し合おう。避妊すらしてなかったんだから。」


最後の一言に響子の体が強張ったのが、亜樹にも見て取れた。けれども事実は変えようがない。


「約束して、これ以上私を傷つけないって。」

消えそうなほど弱々しい声に亜樹は頷いた。




響子はこれで二週連続それぞれ異なる男と金曜の夜から一晩を共にしたことになる。字面をとらえると奥手の響子とは思えない。

最初は亜樹、今回は雅徳。ただしこの二人との夜には大きな違いがある。

亜樹とは体が伴っていた。


全ての間違えは先週の歓迎会だった。アルコールが入り、ボーリングで体全体にアルコールが回ってしまった響子は三次会を断った。飲み会にあまり付き合わない亜樹も二次会で切り上げ帰ることになった。他にも三次会に参加しなかった人間はいるが、同じ地下鉄路線を使うのは響子と亜樹のみ。必然的に同じ方向へ向かうことになった。


途中吐き気を覚えた響子が次に目を開いたのは、ホテルの一室だった。しかも至近距離に亜樹の顔が。

「これが水森の作戦?」

「えっと、日下部さん、ごめんなさい状況がよく飲み込めてなくて。」

「じゃあ、教えてやるよ。俺もあの頃とは違って水森を満足させられるようになったし。あんたのお陰で随分変われたから。」

「私の…」

「そう、高校の時はショックだったけど所詮男女間はそんなもんだし、」

亜樹の言葉の意味が分からないだけでなく、現状すら理解していなかった響子をパニックに陥れるように亜樹が覆いかぶさってきた。


「自分でも馬鹿だったと思う。あの時折角誘ってもらえたのに。」

さすがにベットの上で覆いかぶさられることが何を意味するのか、パニックの中でも理解した響子がアルコールで気だるい体を用いて抵抗を始めた。


「なに、そういうのが好みなわけ、レイプ願望があるとか?、じゃあ、協力するけど。個人的にはそういう趣味はないんだけどね。」

そういいながら、笑みを浮かべる亜樹。響子がどうもがいたところで、両手は既に頭の上で亜樹のたった一本の腕で押さえつけられていた。


両足は閉じたくても、大きな体が邪魔をして閉じることはできない。

唯一、今の響子が自由にできるのは口だけ。

「日下部さん、お願い、止めて、」

響子の目からは大粒の涙が溢れ出た。そして、縋るような声で最後に搾り出した言葉にも亜樹の反応は冷たいものだった。


「本当に好きなんだ。こういうシチュエーション。よく涙まで出てくるもんだ。じゃ、ご希望に添えるように何もなしでいきなり行こうか。」

スカートは腰まで捲り上げられ、スプリングニットもキャミソールも、そしてブラジャーもいっきに首元まであがっていった。そんな状況下、響子には出せる声すら残ってなかった。


残っていなかったのに、不思議と痛みに対する唸り声だけはその瞬間に自然と口をついた。


「昔からやってる割にはすごい締りじゃん。それとも前戯をしてないから?、だとしたら本当に自分の体を良く知ってるんだ。引きちぎられそうなんだけど、」

響子には亜樹が自分の上で何を言っているのかが分からない。そして、途方もない痛みに自分がどうにかなりそうで仕方がなかった。

そして出なかった声が、亜樹の体を打ち付けるリズムとともに部屋に響きはじめた。


意識が遠のくなか、亜樹が声も絶え絶えに何かを聞いている。

「う、最後は、どうしたい、おまえ、飲んでるよな、セックス好きなんだから。中でいいか?」

最後という言葉に響子は最後の力で頷いた。その後の言葉など耳には届かずに。




全ての迸りを注ぎきった亜樹は、響子が意識をとばしてぐったりしている様に喜びを感じた。自分がその虚像を好きになった女への仕返しが成功したように思えたから。

けれども、その時間は一瞬。

なぜなら、それは成功ではなく大きな過ちにすぎなかったから。


響子から流れ出ている液体は白濁したものではなく、血が混じって赤とも濃いピンクとも言えないものになっていた。

それが意味すること、そんなことは誰かに聞かずとも分かる。


アルコール、それとも変に高ぶってしまった気持ちのせいか途中で気付くことが出来なかった自分にすら怒りを覚えた。





響子が次に目を覚ますと、服は整えらえ、亜樹は近くのイスに腰を沈めていた。カーテンの隙間からは鈍い春の日差しが差し込んでいる。

覚醒と同時に響子の下腹部には鈍痛が走った。


「ごめん。」

静かな空間に亜樹の一言が響く。


「いやーーーー」

それを打ち消すように、響子が叫び声にも近い声を発した。叫んだところで事実は変わらないのに。



それから響子は亜樹の言葉など耳に入ることもなく、どこをどうやって帰ったのか覚えていない状態で家路についた。



「にゃ~。」

「シロ、ごめん。怒ってる?おなか空いたよね。」

アパートの中はいつもと同じ空気だった。途中で馬鹿なことを考えなかったのは、自分を頼る弱い存在のお陰。

その日響子は一歩も外に出なかったし、何も食べなかった。いや、外に出れなかったというほうが正しい。ただ頭の中で自分に起こったこと、そしてこれからを冷静に考えようと努力した。



亜樹とそんなことがあって最初の月曜、違う意味で体の重さを感じながら響子は目覚めた。会社に着くと、既に亜樹の姿が。そして、この会社に来てから初めて、亜樹から先に挨拶をされた。

最初は耳を疑った。そんなはずはない。加害者である亜樹とて、目を逸らすだろうと。


「おはよう、水森。週末はどうしてた?」

しかも、昔の亜樹のような口調。更には当たり前のように、プライベート事へ対する質問。

響子の時間は止まった。そして、忌々しいコトがはじまる直前に亜樹が言った『あんたのお陰で随分変われたから』という言葉がフラッシュバックした。

何が何だか分からなくなる。そして、亜樹から目を逸らした。そこには一方通行の挨拶が残っただけだった。


響子からの挨拶が返ってこなくても、亜樹は時間を見計らっては響子に話しかけつづけた。席が隣同士なのだから響子とてどうしようもない。



残念ながらそれは毎日続き、そのことが日増しに響子に会社辞めたい感を募らせた。

先に痺れを切らしたのは亜樹。強い決心のもと金曜日の仕事後に話し合いを響子に求めたものの聞く耳を持ってもらえなかった。

だから今日、あの日よろよろと歩く響子を心配して後ろからそっとついてきたアパートに、あらためて訪ねてきたのだった。


響子のアパートに到着したものの、やはり訪問するのは躊躇われた。ところが、ようやく決心を固めた亜樹の視界に飛び込んだのは響子と正徳の姿。そこでどうしようか考えていたところに、響子が一人で戻ってきたのだった。



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