楽園のとなり

 

24




耳をかすめた言葉はどこか他人に向けられたもののように感じられた。亜樹から初めて聞いたときは、待っていたもののように思えたのに。


(いつも、どういうときに使うの、日下部君、どうして、)

心の中で質問したところで返事はない。


そして、回していた腕の力が弱まり、亜樹が響子の頬に手を添えた。

「日下部君、雨上がりで外、蒸し暑くて、すぐに、シャワーが浴びたくて、」

響子はそう言うと、亜樹の手をすり抜けた。たいした時間もおかず違う男とキスを交わせるほど響子は器用ではない。


部屋に向かいながら、自分には出来ないことが亜樹には容易くできてしまうことに涙が自然と溢れてきた。悔しさ、それとも悲しみ、さもなければ後悔。後悔だとしたら何に対してなのか。

自分の目からでているのに、響子にはその意味すら分からなかった。



雨が止んでしまったからか、それとも感情に囚われてしまったからか、響子は重要な決心を忘れてしまっていた。そう、亜樹と向かい合うという。


更には何故いつも心の片隅で思い続けていたかも。いつかこの同じ空の下で巡り会えるのではないかという甘い期待があったからこそ、忘れなかった、嫌いになれなかった亜樹。


手が届かない距離にあるときにはあんなにも恋焦がれたのに、近づいた途端響子は見失った。




手からすり抜けた。きっと意図的に。

—確かなものなど何もない—

現実を突きつけられたようだった。

けれどもどうして?


亜樹の悪い噂、事実だったらとっくに響子の耳に届いていただろう。今更な感が否めない。ただ原因が何にしろ、時系列から見て今日の午後から帰ってくるまでに理由が存在しているのは明白だ。


理由を尋ねれば簡単に答えは返ってくるのだろうか?いや、聞かなくてはいけない。何が原因にしろ、これでは響子がかつての亜樹のように…、違う、響子は何もしていなかった。でも、亜樹は…。今、亜樹にまとわり付いている悪い噂は悪い真実が装飾されたにすぎない。

因果応報。全ては自分に帰する。



「日下部君、」

響子が軽めにシャワーを浴び、キッチンへ向かうとそこに亜樹がいた。


「話があるんだけど、そこ、座って、」

「もう遅いから、明日に 」

「響子、でも、今話さないと手遅れになる気がするから。」

響子の言葉を遮り、優しく亜樹が座るよう促した。

そしてその言葉、態度は先ほど響子が意図的に亜樹からすり抜けたことを決定づけるものだった。


「何があった?」

「えっ、何がって、別に何も、」

「頼むから、話してくれ。」

亜樹の視線から逃れるように、響子の目が泳いだ。


帰ってきてから一連の行動は、もはや疑う余地もなく響子に何かがあったことを裏付けている。


「話し合おう。どんな言葉でもいい、ちゃんと話し合おう。」



何をどう話せばいいのか。

聞きたいことは勿論ある。

何故沙耶佳との行為の後、響子とも同じことが出来たのか?

亜樹にとってセックスはただ単に生理的欲求にすぎないから、誰とでも出来るのか?そして、同じ屋根の下にいる響子はお手軽な存在だからなのか?

更には、亜樹の言う愛しているというのは何なのか?


でも、怖くて何一つ言葉が出てこない。何故なら回答如何では、響子は全てを失ってしまいそうで。それだったら聞かないほうがいい。

音のない静かな時間が二人に流れた。


泳いだ視線を亜樹に戻すと、昔のような優しい視線で響子を見つめていた。そう、昔のような。

それが響子には理由に思えた。


…わたしが求めていたのは、優しかった日下部君なの。過去の日下部君を、今の日下部君越しに見ているのかもしれない。」

「違う、今の響子は確かに今の俺とここで暮らして時を重ねている。」

「何も違わない。昔の日下部君なら好きだったところをいくらでも言えるのに、今の日下部君に対しては何もないの。むしろ怖いの。このままこうしていたら、いつか高校の時よりも傷つく日がくるんじゃないかって。だから、もうただの同居人に戻りましょう。そして、お互いにここを出て元の生活に、」

「無理だよ、それはもう。俺は響子を手放せない。愛しているんだ。」

「何故?、分からない。日下部君がわたしを好きになる理由は何?日下部君も過去に囚われているだけ。でしょ?」


「違う。」

「え、」

「違う。俺は今の響子を愛している。」

「どうして、ただ傍にいて簡単にベッドの上で日下部君が好きなことを出来るから?日下部君の愛してるって何?」


…何を、誰から聞いた?」

「誰かに質問なんかしなくても、そんなの耳に入ってくるに決まってるじゃない、あの会社にいたら。日下部君とベッドを共にした人が何人もいるなら。日下部君の愛がどういうものかなんて。」


亜樹を責めるその言葉で一番傷ついているのは響子だった。言葉には棘が。けれど、その棘を受けているのは響子自身だった。


「否定はしない。過去においては俺の愛なんて確かに陳腐なもんだろう。だけど、君のお陰で気付いたんだ、どういうものかを。」

「どういうものなの、教えてよ。…わたしは知らない。」

「そんなに怯えなくていいんだ。怖いものじゃないから。ゆっくり二人で確かめればいい、これからずっと続く時間を使って。」

「ずっとは続かない、きっと終わりは簡単に来るから。」


その言葉に亜樹が急に席を立ち上がり、響子のところまで来るとイスから立ち上がらせた。

「もう間違えない。それにこの気持ちは簡単に終わったりはしない。」


亜樹の言葉は力強いものだった。そしてその視線も。




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