楽園のとなり
楽園のとなり
27
「確かに人はその隙間に簡単に落ちて、必死にもがく生き物だよ。現に俺も。…落ちっぱなしなのかもしれない。それが当然になって、もがくことすら忘れていた。馬鹿だよな、それをいきなりもがき始めたから、それこそ必死だよ。息出来てんのかってくらい。…ねえ、ちゃんと息させて、俺に。」
「出来るよ、日下部君なら。私にそんなことを言わなくても。私たち、まだ、いくらでもやり直せる。私は見つけたの、やり直すために私のそばにいてくれる人を。それは、あなたじゃない。」
「御厨さんと何かあった?」
「どういう意味、それ。」
「一目惚れってそうそうないだろ。特に社会にでると。もし、そうだったとしたら、とっくに二人は付き合っていただろうし。」
「そうね、いきなりセックスはしないでしょうね。普通にどこか行ったり、ご飯を食べたり、色々なことを話して、その延長線上で告白されて。だから、その人を意識して、色々見えてきて、この人とならって、」
「聞いていい、昔どうして告白してくれたの。飯食いに行ったことも一緒に出かけたこともなかったよな。」
「話しているだけで分かったから。日下部君がどういう人か。問題が解けないときに、答えじゃなくて、そこにたどり着くまでをちゃんと教えてくれて、たどり着いたら一緒に喜んでくれて。」
「俺、好きだった。響子のそういう姿勢。結果だけじゃなくて、しっかりプロセスを考えるところ。でも、誰かれ見境なく一緒に喜んだりはしていなかった。響子くらいだったよ、自分にもその喜びが返ってきたのは。 好きだった、あの頃の君が。そして、愛している、今の君を。」
「…私には、耐えられない。」
「何を。もしかして、俺の過去?」
「過去じゃない、未来。」
「未来?」
「あなたはきっと、過去のあなた同様、いつか私を切り捨てるから。」
過去においては、それは事実だ。けれど、未来は分からない。なぜ響子がそんなことを断言するのか、いや出来るのか、亜樹には分からなかった。
けれど、悪しき習慣を確かに亜樹は繰り返してきた。手に入れては切り捨てるという。何ごとにも絶対はない。それでも亜樹は響子を切り捨てることなど絶対ないと思えた。
「こんな大きなミスは二度もしないよ。結婚しよう。愛してる。週末には可能であれば響子の家に挨拶に行きたい。結婚の承諾を得た上で、社内結婚になるわけだから、御厨さんにも報告すべきだし。」
「やめて、もう、やめて、もうこれ以上、私をあなたで縛らないで。」
「縛るつもりはない。ただ、」
「もう、止めよう、やっぱりこんなのうまく行くわけがなかったんだから。私、御厨さんと、」
「ごめん、それはさせられない。」
「何、止めて」
亜樹は響子を抱きかかえると、そのまま自分の部屋へ連れて行った。
いくらあばれたところで、男女の力の差にはかなわない。既に経験しているのに、それでも響子はもがき続けた。
更にベッドの上では、響子はあまりにも無力すぎた。亜樹によって開発された体は、亜樹に簡単に屈服してしまう。響子の体は先ほど持て余した火照りと共に、再び熱くなった。
そして、その火照りを満たす以上に亜樹は激しかった。
夜が明ける、そんなことをばんやりと思ったときだった、亜樹が果てしない闇に響子を引きずり込む言葉を発したのは。
雅徳の視界には、昨日は来ると言った響子の姿は始業時刻を過ぎても映らなかった。社内恋愛、それも直属の部下と、というのは色々な意味で大変だと思った。
「主任、水森さんから体調不良の為休みたいという連絡が先ほどありました。」
「そうか、他に何か言ってたか?」
「いえ、特に何も。ところで、今日は前回同様二時過ぎにここを出て、この間の喫茶店で営業と待ち合わせることになっています。簡単に打ち合わせをして、3時半に先方です。」
「日下部と私が先に打ち合わせておくことはあるか?」
「いえ、ありません。それより、今日は一杯どうですか?ちょっと早めにお話ししておきたい事があるもので。」
「…急ぎか、」
「何かご予定でも?」
亜樹の予想通り、雅徳の返事は歯切れが悪かった。昨日二人は確実に会っていただろう。でなければ響子があんな時間に帰ってきた説明がつかない。そして響子の今日の病欠。雅徳が気にしない訳がない。
明け方近くまで響子を味わいつくし、ほとんど寝ていないのに亜樹の頭は怖いほど冴えていた。
都合よく決まっていた雅徳との外出のお陰で、夕方からの時間も押さえた。後はどうするか?
いらないものを排除して、響子を得るために。
亜樹に全てが味方しているようだった。相手は予想を裏切ることなく、前回と同じ行動を取ろうとしている。笑みが溢れてしまいそうだった、気を抜くと。
時刻は5時半を過ぎたところ。営業マンが機嫌良く『是非』と言っている。予定通りうまく畳み込んで契約締結までこぎ着けたのだから当然だろう。
移動して、1時間から1時間半。
「…8時前か」
「何か言ったか、日下部」
「いえ、何も。」
取引先から店までの移動を利用して雅徳はメールの確認をした。仕事のメールはいくらでもある。けれども、たった一人、欲しい人からのものはなかった。プライベート携帯にも。
ふと本当に体調不良なのだろうかという不安が脳裏を過る。もしかして、自分の行為のせいなのではないかと。でも、確かに、その後響子は自ら雅徳にキスを求めてきた。雅徳は亜樹の目を盗むように、携帯から響子へ宛てて『必要だったら、何時でもいいから連絡をくれ。必ず行くから。』とメッセージを送った。