楽園のとなり

 

28





響子は程よく冷えた部屋のベッドの中で無意識に下腹部を何度もさすっていた。

亜樹は響子とのセックスの時にはほとんどコンドームを使っていない。あの忌まわしい一回目も。この家で初めて交わったとき、最後は外に出した。この方法は100%にはならないことは分かっている。

けれども、何となくそれでいいような気がしていた。亜樹は細心の注意を払ってくれていただろうし、その時はその時なのだからと。


でも、亜樹は確かに今朝言った。『全て響子の子宮に注いだ』と。更にはゴムだってそのものが破損したら、避妊には役立たないから他の男とは寝ないほうが賢明だとも。

亜樹に何度となく精液を注がれてしまった以上、妊娠の可能性を否定は出来ない。亜樹は他の男と言ったが、それは今この状態で雅徳と関係をもって妊娠でもしたら、生まれるまではどちらの子か分からないと言いたかったんだろう。100%の避妊はしないことなんだから。


亜樹同様、雅徳がコンドームを使わないセックスを好めばその確率は高くなる。昨日あそこまでしておいて、付き合いだしたらその先はなし、なんてことできるはずがないのだから。


…ホントに出来ちゃったら、出来てたら、どうしよう、、」

響子はぽつりと独り言をもらした。そして、次に大きなため息をつき、重い体をベッドがら起こした。外はまだ明るい。それは響子が思っている以上に時間がゆっくりながれていることを表しているようだった。


服を拾いあげ、そのままの姿で響子はバスルームへと向かった。ちょっと熱めのお湯は、気持ちを落ち着かせてくれる。妊娠はいやでも時がくれば分かることだ。けれども、どうして自分と亜樹はこうなってしまうのだろうか。それはどうやっても時間が解決してくれることではないだろう。

ちゃんと話し合わなければいけない、さもないともっとよくないことが起こる、何故だか響子はそんなことを漠然と思った。




7時半、未だに響子からは何の返事もない。そろそろ取引先との一席も終わるというのに。亜樹には悪いが断ってしまおうかという考えも頭を擡げる。ただ亜樹が雅徳のグループに来てから、個人的に飲みに行こうと言ったのは初めてのことだ。とすると、よほど話しておきたいことがあるのかもしれない。

「主任、この時間じゃ店に入れないといけないんで、うちに来ませんか?」

更に今まで自分の手の内をあまり見せないタイプの亜樹が、家で飲むことを提案してきた。


ーーー 何かある ーーー

そしてそれはあまり良くないこと。得てしてこういう場合は。

良いことより、悪いことが起こる。だったら面倒なことに巻き込まれるよりは、避けたほうがいい。

けれど、亜樹との普段の関わり方、距離感を考えると、一体どんな悪いことがあるというのだろうか。

自分の部下にまで変な勘ぐりをする必要があるのだろうか。


「どうかしましたか?」

「いや別に。」

「そうだ主任、猫アレルギーありますか?俺、実は猫を一匹飼っているんですけど。」

「特にないし、猫自体大丈夫だが。」

「それは良かった。」


亜樹には悪いが動物を飼っているということは意外だった。ただ、また何かが引っかかる。聞き及んでいる女性関係は褒められたものではないが、亜樹の仕事の進め方にはソツがない。いかなるときも。先を読む力も何もかもが他の部下より秀でている。

それなのに、誘った後で実は人によってはアレルギーがある動物を飼っているなんて言うだろうか。それに…『それは良かった』と言ったときの表情も、何かが引っかかる。


「道なりに輸入食材の店があるんで、そこでナッツとワインでも買っていきましょう。」

「ああ、」

気のない雅徳の返事にやはりこの人は同期の中で出世が早いだけあると亜樹は思った。ただそうであってくれなければ亜樹としても物足りなかったのだが。


いい加減亜樹が何かを企むとまではいかないとしても、何かあることには気づいているだろう。

さて、猫の次は何を言うか。話の流れなど無視して、そろそろ面白い一言でも言ってしまおうか。


今までは出来る上司だった雅徳。それが亜樹にとって邪魔な存在になった今、どういう形であれ、自分たちの関係がどうなろうと、理解してもらわなくてはいけない。

「ところで主任て女子社員に人気があるわりには、浮いた話がないですよね。俺なんか噂が先行して首がまわらなくなることもあるって言うのに。向かないのかな、いや向いてないんだよな社内恋愛って。主任も案外相手のことが気になるから、敢えて社内恋愛しないとか。だとしたら、理由は異なれ、俺たち向いてないですね。あ、ここです。」


亜樹の言葉に怪訝そうな顔をする雅徳をかわすように、亜樹はマンションに到着したことを告げた。雅徳の怪訝そうな顔は当然だろう。いきなりこんな女のような恋愛話をしたのだから。

面白くなってきた。

エレベーターを待つ間も、もう少し楽しい話が出来そうだ。


「そういえば、ちょっと前に高校の同級生に偶然会ったんですよ。卒業してから一度も顔すら合わせたことがなかった人に。世の中狭いってこういうことを言うんでしょうかね。」

亜樹の何の脈略もない話はどれも一つにつながらない。

ただもしつなげるとするなら、、、そういうことか。つい悪いことを避けるために警戒する癖がついてしまっているが、もしかすると良いことなのかもしれない。

雅徳は目の前でなぜかチャイムを鳴らしてからドアの鍵を開けている亜樹を見ながら思った。



亜樹が帰ってきた、チャイムの音に続き解錠される音を聞きながら響子はそれを理解した。シャワーを浴びてから、寝るでもなく、何をするわけでもなくじっとベッドの上で過ごしていたので、時間の検討すらつかない。ただ亜樹が帰ってきたという事実と、そういう時間なんだということだ、分かるのは。そう、事実を受け入れればいい。そこに色々と複雑な感情を混ぜるから、どうしようもない袋小路に行き着いてしまう。感情を殺せば、強くなれる。感情を殺せば、次の、そう思ったときだった。無情にも亜樹以外の声が飛び込んできたのは。

そしてそれは良く知る人物の声。そんな馬鹿なことはないと否定したところで事実は覆されない。せっかく事実を受け入れようと思った矢先、響子の心はそれを拒否した。


「あれ、こいつ主任を全然警戒してないな。玄関まで出てくるなんて。こいつがさっき話した猫です。厳密に言うと友達が飼ってるんですけど。で、その友達って言うのが、」

響子の耳に入ってくる亜樹の声はまるでドラマで見るような検察官が被告に論告求刑をしているトーンに聞こえた。


「さっき言った高校の友達で、」

そして次の声は判決を言い渡す裁判官のもののようだった。

「猫の名前はシロ、その友達は水森響子、だろ。」





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