楽園のとなり

 

29




『悪いことが起こった。』こういう予想は簡単にあたる。期待が裏切られることが容易いのと同様。

響子の心は様々な闇に覆われていくようだった。


これが亜樹が昔得た話し合わないと悪い方へ向かってしまうということだろうか?

それとも、雅徳に甘えようとしたからなのだろうか?


では、亜樹と話し合えば、雅徳に自分がどうしたいか話せば、、、

負のスパイラルにこれ以上落ちないために響子は話し合おうと思った。せっかく三人がそろったのだから。



「さすが主任、話が早くて助かります。俺と響子は高校の時、お互いに想いを寄せ合っていました。まあ、色々あって当時はうまくいきませんでしたけど。そんな彼女に偶然にも再会して、あの頃の気持ちが戻らないわけがないでしょう。」

「待って、日下部君、それは違う。」

二人の前に現れた響子の姿は蜉蝣という言葉を連想させるものだった。儚くて、その名をもつ生物のようにすぐに消えてしまいそうな。


「大丈夫か?日下部から体調不良と聞いていたが、」

「すみませんでした。自分で何の連絡もしなくて。それに御厨さんに心配までしていただいていたのに、返事すらしないで、、、。でも、どこも悪いところなんてなかったんです。」

そうは言っているものの、雅徳には十分響子の体調は悪そうに見えた。本当に消えてしまいそうなぐらい。


「何か食べた?」

雅徳への態度や口調とはまるで違う様の亜樹の質問に小さく横に首をふる響子はやはり力ない。


焼け木杭に火がついたのなら、響子はもっと幸せそうな顔をしているだろう。なのに、幸せの欠片も感じられない。そして先ほどは亜樹の言葉を否定しようとしていた。

何より、昨日キスを求めてきた響子を思い返すと、というより雅徳が知る響子は男を手のひらの上で転がして楽しむなんていう芸当は持ち合わせていない。


「水森さん、体調に問題がなければわがままをきいてもらえませんか。コーヒーをいれてもらえると嬉しいんですが。日下部、酒よりコーヒーの方がいいだろう。それと、コーヒーで流し込むでも何でもいいから、水森さんは何か食べなさい。」


響子がコーヒーを落としている間、誰も言葉を発することはなかった。

亜樹はどうやって雅徳を響子の周りから排除するか考え、雅徳は自分の目に映る現状と今までの情報をもとに今後の展開を見据えようとしていた。

二人の思惑が交錯する中、最初に言葉を発したのは響子。それは当然のことと言えば当然だった。なぜなら、響子は二人のようにこれからどうすべきかなどというシナリオを考えていなかったのだから。ただ、伝えたかった。今までを、この先を。


「日下部君から何か聞いているとは思いますが、私からも、私の目線で説明させて下さい。」

響子は雅徳に向かって話しだした。

「私たちは同じ高校の出身です。1年2年で同じクラスでもありました。そして当時私は彼が好きでした。」

淡々と響子は時間軸に則って雅徳に説明を始めた。何の感情も見せることなく。

亜樹と自分がどうしてすれ違ってしまったのか、亜樹に蔑むような目で見られてからは誰かを好きになることにいかに臆病になってしまったか…。


響子の視点から説明される亜樹との再会のその時までは、まるで色のついていないような時間が流れていたように二人には聞こえた。そして、響子は一瞬悲しい笑みを浮かべながら、もし、また亜樹に会えたのなら当時の気持ちを過去のことして伝えたいという願いはどんなときも心の片隅にあったと話した。


そんな願いは、会社の吸収合併により偶然にも叶った。けれど伝えたいという気持ちより、過去に囚われた恐怖は勝った。あのときと変わらない亜樹の蔑むような目により。

今なら理由は分かる。けれどもあの時は、やはり時間が経っても亜樹は響子の存在自身を未だに疎ましく思っているということを再認識させられるだけだった。


渡りに船だったのは亜樹の態度。あからさまに装った初対面は、響子に逃げ道を与えた。これ以上、亜樹から自分を否定されない為の。


ところが歓迎会があった日に、そこまで話すと響子は押し黙ってしまった。

沈黙が訪れる。響子は自分に起きたことをどう言えばいいのか、どの表現なら亜樹も自分もさほど傷つかずにすむのか、考えても答えがでなくなってしまったのだ。


「俺が、その日、響子を無理矢理犯した。」

それまでの響子の淡々とした声よりも、更に事務的に亜樹が言った。高校を卒業してから、たいした色もつくこともなかった響子の時間に、色を奪うだけで事足りず、亜樹は闇のような黒を今度は塗ったのだった。



亜樹の口から飛び出した『響子を無理矢理犯した』に響子の体はこわばった。雅徳が、今日ここに来てしまったことだって、亜樹との間にあった嫌なことを再び思い出した上に第三者に知られることだって、先にちゃんと話し合っていたら…、もしかしたら違ったのかもしれない。

それどころか、もっとちゃんと亜樹とどうボタンを掛け違えたか話し合っていたら、レイプ自体なかったのかもしれない。


悪いことが起こる負のチェーンを断ち切らなくては。

響子は、レイプの事実も含めちゃんと話そうと、そうすることで乗り越えようと決心した。



けれど、この時の響子の決心に意味などなかったのかもしれない。時は既に遅すぎたのだから。第一、雅徳がここに訪ねてきたことなど、これから起こることに比べれば悪いことでもなんでもなかった。

負のスパイラルを断ち切るつもりが、この日を境に響子は自らそれを増長させたにすぎなかったのだから。







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