楽園のとなり

 

30



二人の今までを正しく理解することと、それらを全て納得することは違う。

納得など出来るはずがないと雅徳は洗面所の鏡越しに自分の顔を見た。


勝手な思い込みで響子を傷つけ、レイプまでして、更に…。もし響子が妊娠していたら、その時自分はどうすべきなのだろうか。



昨日の約束通り会社に響子の姿はあった。勿論、亜樹の姿も。

「水森さん、無理しないでね。なんか顔色まだすぐれないみたいだし。」

「ありがとうございます。」

「こんな無愛想なヤツの隣で居心地悪かったら、いつでも俺の隣においでよ。」

「おまえの隣の席はうまっているだろ。」

「え、水森さんの為ならいつでも代わってもらうから。」


雅徳の席からでは、全ての会話は聞き取れないが、小出のお陰で響子は何やら笑顔を浮かべている。

けれど、、、なんて不幸な席なんだろうか。

これと言って席替えをする理由はない、…作るしかないか、そう思ったときだった、雅徳の内線がなりだした。その音はまるで自分の立場を利用すると言う邪意を警告しているように雅徳には聞こえた。


「久しぶりだな、御厨。」

「ああ、そうだな。何時だ、今?」

8時を過ぎたところだ。これからメシでもと思ったんだが、まあその前に一つ、大したことじゃないんだが片付けておきたいことがあってお前に電話した。」

「俺に?俺なんかでお前の役に立つのか?」

「まあな。少なくても俺よりは。」


久しぶりに聞くニューヨーク支社にいる同期は雅徳に思ってもみなかった機会を与えてくれた。先ほどの音は警告ではなく、時を知らせる鐘だったのかもしれない。


「一人推薦できる人物はいるが、正直なところ俺も手放したくない。」

「お前がそういうくらいなら、確かだな。会社はお前個人の利益より全体の利益をとる生き物だ。分かっているとは思うがな。名前と部署名をメールで送っておいてくれ。後で人事ファイルを取り寄せるから。」

「分かった。」


亜樹は昨日不敵な笑みを浮かべながら言った。雅徳には社内恋愛は向かないと。特に自分の部下相手には。

響子を視界に捉えながら、雅徳は確かにそうだと思った。自分の部下である響子相手に恋愛など。冷静でいられるわけがない。

そして横の亜樹に視線をうつし、けれど社内恋愛はどうだろうかと挑戦的な目を向けた。


雅徳に電話を掛けてきたのは、今津貴行という人物だった。貴行の祖父は現会長であり、伯父は社長、そう、貴行は創業者一族の血筋のものだ。


そして数年前からはニューヨーク支社へ配属となっていた。その貴行がどうしてという疑問はあるものの、依頼してきた内容は雅徳にとってありがたいものだった。

雅徳は早速貴行にあて、メールを送った。そこには自分の部署名と、簡単な推薦文、そして『水森響子』と書いて。


まるで頃合いを見計らったかのように再び内線がなりだした。

相手は、、、


「悪かったね、呼び出してしまって。」

「いえ、大丈夫です。」

「実はほぼほぼ内定しているんだが、」

雅徳は人事部長からの呼び出しを受けたのだった。内容は昇進に関することだった。

「技術部の君には、どうだろうか。どちらかと言うと管理部門よりになるのだが。けれども、この昇進はもっと先につながる通過点になるだろうから、こちらとしてはしっかりと臨んでもらいたい。」

「はい、ありがとうございます。」

「それとこんなに早く君に知らせたのは、仕事量だ。そろそろ抱えているプロジェクトをうまく手放していって欲しい。君のところは人員が最も少ないから、全員他のグループへ移動することになるだろう。だからこそ、それぞれの行き先を見越した上で割り振ってくれ。」

「分かりました。」

10月の人事異動に向け事が動きだしたのは明白だった。

ということは、貴行からの先程の話も、実際に動くのは10月。あと2ヶ月ちょっと、やはり理由を作って席替えをするしかないと雅徳は思った。そして2ヶ月あれば、響子が妊娠しているかどうかも分かる。


一杯コーヒーを飲もう、いや、飲んだほうがいい、落ち着くには、雅徳はそう思い販売機へ向かった。

この手の販売機でもそれなりのアロマが周りを満たす。雅徳のあたまをすっきりさせてくれるように。お陰で昨日よりもはっきり響子の話が頭の中で繰り返されていく。


欠けているピースがある。雅徳はコーヒーを口に含んだときにそれに不意に気がついた。

レイプという事実は、その後の亜樹により次第に許せるようになったと響子は言っていた。許すためにも亜樹のもとを離れ一歩踏み出そうとしていたとも。


それが響子の不用意な姿で再び体を重ね合わせ、その後も亜樹を拒むことができず流されてしまったと言っていたが…。そうだろうか?響子の淡々とした話し口のせいでそこに感情は見られなかったが、本当はどうなんだろう。

亜樹に月曜の夜、雅徳との間にあったことを話しながら響子は確かに雅徳のことはこれから好きになれそうだと思ったと言った。だからただ流されただけの亜樹との関係は断ち切りたかったと。

そこには亜樹に連夜抱かれていたときの響子の気持ちが見えない。

二人の部屋が違う以上、亜樹のベッドに入るということは流されていただけで可能なのだろうか。


もし、本当は再び亜樹に『好き』という感情と共に接していたのなら、月曜に雅徳の食事の誘いについてきたのはなぜか。もっと言うと雅徳の行為を否定せず、自らキスをどうして響子は求めてきたのか。


欠けたピースは月曜のどこかの時点にある。響子はそれを作為的にはずしたのだろう。一体何のピースが欠けたのかはわからないが、響子がはずしたのだから感情を捨てて話したのだ。それを悟られない為に。


席に戻ると貴行からの返信が来ていた。わざわざ返信を送ってくるなんて珍しいこともあると開くと、ただ一行『美人だな。でも気に入った。8月15日からだ。』とあった。


雅徳が知る限り、貴行が美人嫌いだったことはない。なのに、『でも』というのはどういうことなのか。そして8月15日からとは…随分急な話だと雅徳は思った。






Back    Index    Next