楽園のとなり

 



「どうぞ。」

目の前に出された紅茶を見つめながら、やはり響子は響子だと亜樹は思った。

部屋にあげたくなかった自分に対してまで、お茶をだすなんて。


ただ、今の亜樹にはお茶へのお礼を言う前に言わなくてはいけないことがある。


「水森、本当に申し訳なかった。先週のことも、高校のことも。謝ってすむ問題じゃないのは重々承知している、けれど心から謝罪をしたい。」

テーブルに頭が着きそうなくらい深く頭を下げる亜樹から、響子は亜樹が本当に謝罪をしようとしていることを汲み取った。


亜樹が好きだった、心の底から。そして亜樹に拒絶された後、それ以上に好きになれる人は現れなかった。

だからこそ、あんなことがあっても憎みきれない自分の甘さを理解している。嫌いになれたらどんなに楽なことか。



「日下部君、頭を上げて。ただ、本当に謝る気があるなら約束をして欲しいの。あなたとの間には何もなかったって。私、全てを忘れたいから。昔のこともね。だから、会社でも必要なこと以外は話すのは止めましょ。」

「それは無理だよ。」

「なんで、さっきもう私を苦しめないって約束したばかりじゃない、だったら…。」

「無理だよ。昔の君を今も覚えている。本当は好きだった、君以上に好きになれる人はいないってあの歳で思えるくらい。」

「なんで、急にそうなるの?高校の時に私の気持ちを蔑むような目で拒絶したのは日下部君なのに。」

「それは、違うんだ。」

「何も違わない。日下部君は確かに私を拒否したし、その後もずっとそうだったじゃない。当時私はそれなりに傷ついた、でも今回はもっと傷ついたの。だから、もう、関わらないで、許して。」

「許すも何も、許しを請うべきなのは俺だ。今更話してどうなるものでもないし、ただの言い訳に聞こえるかもしれないけど、あの頃の俺が水森に言った言葉には理由がある。」

「理由?」

「俺が馬鹿だったんだ。水森の良さを知っていたのに疑ったりして。」

「疑うって、私が言った事を?」

「違う。俺は、高校のときの水森が好きだった俺は、水森がどんなタイプか知っているつもりだった。なのに騙された。」

「私は日下部君を騙したりはしてないよ。」

「それは、悲しいかな先週自分がした取り返しのつかないことのせいで良く分かったよ。どうしてああなったのかも含めて全て話す、勿論100%信じてくれなくても仕方がない。だけど聞いてもらえるかな。」

うな垂れながら呟く亜樹に、響子は小さく頷いた。


「高校の時の水森はすごく可愛くて素直で、話していていつも自分が独占できたらと思う人物だったよ。3年でクラスが別々になったときは本当に残念だと思った。だけど、たまに俺のところに来るから、てっきり俺に気があるって思ってたんだ。―


『おい、日下部、水森ってああ見えてすごいらしいぜ。』

『何がだよ。』

『男関係。自分をよく知っているから体をえさに自分の欲しいものを手にいれてるんだってさ。あ、おまえもその一人か?勉強教えるかわりにさせてもらってんだろ?』

『なんだよ、それ。』

『え、日下部はまだお預けかよ。ま、そのうちお声がかかるかもな。な、遠藤。遠藤なんか結構頻繁にえさもらってんだろ?』

『まあな、日下部もそのうち仲間入りなのかぁ。今でさえ皆で共有してるのにな。』


クラスのヤツが俺にそんな話をしてきた。勿論最初は信じてなかった。けれど、何度か同じような話をされるたびに俺自身疑心暗鬼にかかって…。確か水森に呼び出されるちょっと前に、たまたま誰かが俺にもお声がそろそろかかるみたいな話をしたんだ…。そして、それが実際になった。だからこそ、俺は水森と誰かがしたベットトークが俺に漏れたと思い込んだ。だからあの日、水森にうれしくないって言った。それが全て。」


「そんなぁ、そんなことはないのに…。」

「それは先週分かった。まさか初めてだとは思わなくて。本当に申し訳ないことをした。でも、俺は先週の俺は高校のときからの勘違いのまま、水森がわざと俺を誘っていると思って…。でも、どうしてあの頃、遠藤や坂巻や美濃部はあんなことを俺に言ったんだ。」

「それは…、」

「何か心当たりがあるのか?」

「ううん…」

「な、何か知ってるんだろ?」

「ううん、でも…、もしそうだとしたら、私、すごく辛くなるから…。」

「ね、考えてないで話して。話したら楽になるかもしれないから。」

「あのね、―


昔、遠藤君に気持ちを打ち明けられたことがあったの。そのときは好きな人がいるからって断ったんだけど。けれど、それからもたまに告白をし続けられて…。でも、気付けば良いお友達になってた。そんな遠藤君が陰でそんなことを言うなんて…。それに、私が日下部君に告白することを相談していたのは、一人しかいないの。彼女、遠藤君が好きだった。でも、よくね、私と日下部君が上手くいけば遠藤君も早く諦めがつくからって、私のことを応援していてくれたの。だから、日下部君が言う通りだとすると、彼女が遠藤君たちと裏で結託していたことになっちゃう。そんなの…」



目からハラハラと涙がこぼれ落ちる響子を前にして、亜樹はただ黙って見つめるしかなかった。本当は手を差し伸べて抱き締めたいににもかかわらず。



響子が落ち着くのを見計らい、亜樹は本題へ移ろうとした。今日は過去の話をして、先週ああなってしまった経緯を説明しにきたわけではない。

重要なのは『これから』なのだから。



「水森、今日は謝るだけじゃなく今後のことも話し合いたいと思って来たんだ。まず、言わなくてはいけないことの一つに、先週俺は避妊をしていなかった。」

「…そうよね、後でそのことが気になって気になって、私、最後、よく分からなくなっちゃってて…、でも、日下部君に聞くわけにもいかなくって…、」

「勿論、出来たら俺が全責任を取る。」

「ううん、いいの。日下部君のこれからを私が潰すわけにはいかないから。」

「潰されるなんて思っていないから、だから、もしそうなったらすぐに教えて欲しい。」


黙って頷く響子をじっと見つめて亜樹は一言漏らした。「うそだな。」



「えっ?」

「子供が出来ても、俺のことを考えて隠すんだろ?それくらい分かるよ。」


二人の間に沈黙が訪れた。自分の思っていることを、言い当ててしまった亜樹に響子が言う言葉はない。



暫くして、亜樹が再び響子へ話し始めた。


「あのさ、最近、朝、怖くて目が覚めるんだ。俺、今まで、朝はムチャクチャ苦手で、なかなか起きれなかったのに。理由はいつも一緒。水森が会社に来なかったらって…、勝手だろ?自分で蒔いた種なのにな。」

「そんなに自分を責めないで。すぐには無理だけど、私も、きっと忘れられるから。」

嘲笑を浮かべる亜樹の顔があまりにも悲痛に思え、響子の口からは加害者である亜樹を思いやるような言葉が発せられらた。


「いいんだ、全部をなかったようにして欲しいって頼みに来たわけじゃないから。本当に今日は、今まで起こってしまったことを謝罪して、今後を真剣に話し合いたいと思っていたから。まず、どうして俺が水森の家を知っていたかも話さないとな。」

「そう言えば…」

「あの日、水森が途中でこの世からいなくなっちまうんじゃないかって、怖くて、それでここに辿り着くまでを見届けた。だから、水森がここに住んでいるって分かってて、今日は来たんだ。」

「全然気付かなかった、日下部君がそんなことしてたなんて。」


亜樹はあえて言わなかったが、その日は家までを尾行しただけでなく、夕方、響子の部屋に電気がつくのをそっと確認して帰宅した。


「ここ住んで長いの?」

「うん。上京してからずっと。駅から近い割りには安いし。ま、建物古いから冬は結構寒いけど。あ、寒かったかな?」

「ううん。ま、駅に近いかもしれないけど、この辺物騒らしいじゃん。」

「そうなんだよね。だから洗濯物は室内干し。」

「俺、この辺の治安調べたんだけど、引ったくりとか痴漢とかも多いいって。」

「みたい。前はそうでもなかったんだけどね。でも、ここはまだ駅が近いから明るいでしょ。」

「でも、いつまで大丈夫って言えるかは保障はない。それに、もしかしたら俺の子供を産むかもしれない水森に何かあったら困る。

だから―



その後の言葉に響子の目はこれ以上は開けないというほど、見開かれた。


亜樹は響子に同居の申し入れをしに来たのだった。自分の罪滅ぼしのためにも、近くで響子を見守りたいと。しかも、鞄から賃貸マンションの案内用紙を何枚か出しながら。


「無理、日下部君。」

「どの物件もルームシェアに向いた振分式だから大丈夫。それに、水森の部屋には鍵もつけるし。」

「でも、」

「勿論分かってる。自分が無理な事を言っていることは。でも、本当に怖いんだ。水森がある日消えそうで。」

亜樹の目には恐怖と困惑が浮かんでいた。きっと会社帰りに集めたであろうマンション情報用紙の折り目はしっかり刻まれ、なんども開いたり、閉じたりしたことがうかがえる。

亜樹がここに来て、この話を切り出すための決意の跡が見て取れた。


けれど、響子とて『はいそうですか』とは言えない。

理由はどうあれ、結果として自分をレイプした男と一つ屋根の下に暮らすなんて。


「あのね、日下部君、私猫飼ってるの。だから、なかなか条件的に難しいと思うよ。それに、マンションじゃあ家賃払いきれないし。」

「さっきも言ったけど、俺の罪滅ぼしなんだ。だから、家賃も光熱費もいらない。それに、水森がそう言うなら、ペットも大丈夫な物件を探すから。」

やんわりと理由をつけて断ろうとしたのに、亜樹は尚も意思を翻さない。響子とて本当の理由を亜樹に伝えることが、たとえそれが亜樹自身が蒔いた種とは言え、どんなに彼を傷付けてしまうのか容易に想像がつく。


けれどもやはり無理なものは無理。


「日下部君、何度も言うけど無理だよ。ごめん、それに頭がごちゃごちゃしてきたから、本当に悪いんだけど、もう帰って。」

響子は苦し紛れに、亜樹に帰ってもらうことで話を終わりにしようとした。


苦しそうに言葉を発する響子。そして、下を向くしかできない亜樹。


受け入れるのは本当に難しい提案なだけに、時間がかかるのはしょうがない。その日、亜樹はその苦しげな響子の表情から、説得は難しいと判断しアパートを後にした。





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