楽園のとなり

 

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「すまん、たびたび。もう一度私のところへ来てくれないか?なに、先程の話を取り消すなんてことではないから、安心して来てくれたまえ。」

再びの人事部長からの呼び出しに、雅徳は貴行が食事など行かず"大したことのない用事"を片付けていることに笑いそうになった。どうせまだオフィスにいるのは明白だ。雅徳は思わず電話を取りそうになったが、年寄りを待たるわけにはいかないと再び人事部に向かった。


予想はこんなにも当たるものだろうか。人事部長は言葉そのものや切り口は違えど、予想通りのことを話し始めた。


「実は9月いっぱいで秘書課にいる派遣社員が二人辞めることになってね。一人は以前から決まっていたんだが、もう一人もつい最近決まってね。派遣会社に欠員補充を頼もうとしていたんだが、彼女達が知り得る情報量を考慮して、人員としては一名減だが、社員をあてることにした。それで、白羽の矢が刺さったのが、君のところの水森響子だ。ここだけの話だが、やはり美人は色々な人の目に留まりやすいらしい。それと、これもオフレコだが、今津君が8月早々に戻ってくる。その今津君のご指名なんだ、水森響子は。本来は人事部で面談の上決めたいのだが、時間もそれほどない。そこで君の率直な意見を聞かせてもらいたい。彼女は顔だけのお飾りか、それとも、」

「後者でしょう。むしろ美人であることが足をひっぱるタイプだと思います。仕事は期待以上にこなしますし、何より気がききます。」

「そうか、分かった。では、君から水森君に伝えておいてくれ、来週には辞令がでると。」

雅徳の意見を聞いてはいるが、その実貴行から既にこの話は通っているんだろう。所詮、会社という組織は権力を持つものには従うように出来ている。でも、これはこれでいい。席替えなどという回りくどいことをせずに済んだ。これで、響子を亜樹から遠ざけてあげられる。

「分かりました。本人にはそのように伝えておきます。」

雅徳はそういい、一礼して人事部長の元を去った。



「水森さん、ちょっといいですか。」

雅徳の言葉に本人である響子より先に亜樹が反応する。雅徳を見る亜樹の目は、公私混同しないで欲しいと言っているようだった。その視線に雅徳は余裕の表情をうかべ響子をミーティングスペースに連れ出した。

「実は、せっかく僕らのグループに来てもらったのに、水森さんには移動してもらうことになりました。」

「移動、ですか。もしかして、それは主任が取りはからってくれたんですか?」

「まさか、僕にはそんな力はありませんよ。人事権に関して。ましてや個人の私情で、昨日の今日にもそんな部署をまたぐ移動だなんて。」

「部署が変わるんですね。」


響子が最初に同じような仕事をしている女子社員に聞いた限りでは、移動はほぼほぼグループ間移動、さもなければ営業事務ということだった。ということは、響子の行き先は営業部。このまま本社内に残るのか、どこか営業所に移動になるのか、どちらかだろう。


「一種のご栄転でしょうね。急で申し訳ないのですが、8月15日付で秘書課へ移動です。」

「秘書課、ですか。わたし、秘書の経験、今までありませんが。」

「そのためにも引き継き期間はしっかり設けてあります。辞める方々の有休消化もあるでしょうから、まるまる一ヶ月半の引き継ぎとはいきませんが。」



席に戻ると仕事のメールに混じって亜樹からのメールが一通あった。

『どうかした?』

響子は返事を書く事なく、そのまま亜樹へ振り返り『仕事の話だった』とだけ小さな声で伝えた。


確かに昨日の今日で、いきなり部署移動など雅徳の立場では不可能だろう。きっと以前から進んでいた話がたまたまこのタイミングでなされたのだと響子は思った。そう、以前から…。もし、昨日、亜樹の愛情を拒んだ理由が、秘書課にいる紺野沙耶佳と亜樹の不毛な関係だと告白していたところで、この決定は覆らなかっただろう。


まさか今後関わりを持つことになる貴行へ、雅徳が推薦したことが引き金でこの人事移動がなされるとは響子には考え及ぶはずがなかった。


そして、欠けたピースがあるままではパズルは完成しない。こんな簡単なことを見過ごしたことが雅徳の大罪になるとは、この時の雅徳には分かるはずがなかった。



亜樹はショーケースの中を見つめながら、進歩のない自分に少々呆れていた。響子の笑顔の為に何かを買って帰ろうと思い、またもやケーキ売り場にいるのだから。響子がケーキを喜ぶような年ではないことは分かっているのに。そう思うと、亜樹は地下から上の階へ移動していた。昔誰かにねだられたクリスタルを思い出していたのだ。その透明感、優しいフォルムが響子に似合うと思い。


店内に入ると亜樹が記憶していたもの以外の商品も勿論色々並んでいた。響子と再会する前に他の女性と来たというのに、そんな時でも亜樹の心の片隅に響子という存在があり、響子を連想させるものだけが記憶に残っていたということだ。

亜樹は迷うことなく店員に欲しい商品を告げた。



「ただいま」

「あ、おかえり」

ダイニングでは丁度響子が夕食をとっていた。ちゃんと何か食べてくれるのはありがたい。亜樹は心からそう思った。


「ケーキ食べない?」

「え、あ、」

「これ、買ってきた。それと、これも。」

ケーキが入った箱の隣に、亜樹はもう一つ小さな紙袋を置いた。

「響子に似合うと思って。」

「あの、こんな高いものを日下部君から、わたし、もらう理由がないよ。」

「あるよ、俺はただ響子が喜んでくれればいいんだ。それに、俺がもっていても役には立たない。」

「でも、」

「いらなかったらどこかに投げつけて。そうすれば割れるだろうし。」

「そんなことは、」

「出来ないなら、持ってて、それ。喜んでくれるだけで良かったんだけど。そうはうまくいかないか。」


紙袋に手が伸びない響子に代わり亜樹が袋の中身を取り出した。

「開けてみて。」

「でも、」

「いいから。」

亜樹の強い口調に食事の手を止めて、響子は包み紙を開け始めた。そして開かれた箱からは、美しい赤いクリスタルのペンダントがでてきた。

「きれいな赤。」

ぽつりと響子が感想をもらす。

「初めてそれを見た時、同じ形の薄い青が響子には似合うと思った。でも、今日、俺は迷うことなく赤を選んだ。」

まるで心臓のように思えたから。俺の心臓を響子にあげるよ。ー その2文を心の中で呟き亜樹は続けた。

「いらなかったら、たたき割って。」

「こんなきれいなものをそんな祖末な扱いは出来ないよ。」

「きれい…か、じゃあとっておいて。」

…うん、」

そして響子は先程の亜樹の言葉を思い出し、小さな笑みを浮かべながら『ありがとう』と言った。





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