楽園のとなり

 

32



プレゼントをしまいながら、響子はケーキを食べ終わった後で亜樹が言った言葉を思い出していた。

「昨日はああ言わないと、御厨さん、納得しなかっただろ。でも、俺、響子とこの家の中で距離を置く気なんてないから。」

「それってどういうこと。」

「いつでも愛しているって言いたいし、キスだってしたい。何より笑っている響子を近くで見ていたい。」


ケーキもペンダントも響子を喜ばせるため…。そこには他意もそれを足がかりにしようという策略もないのが、何故か響子には分かった。今の亜樹の中にある、きっと昔の亜樹が持っていた純粋な部分。



雅徳は水・木・金とそれぞれが距離を保ち、自分の考え、気持ちを整理しようと言っていた。特に亜樹には響子の気持ちを揺さぶるようなことはしないようにと。

それをどうどうと破ってプレゼントを買ってきた亜樹は、ある意味真っ直ぐなのだ。いや、亜樹にとってこれは揺さぶるという定義からすると問題なかったのだろう。"ただ喜ばせたかった"んだから。



ーーーコンコンーーー

「日下部君、起きてる?」

亜樹の返事はないものの、中からは物音が聞こえる。

「朝ご飯、日下部君の分も作ったから、食べない?」

響子がダイニングに戻るとすぐに、亜樹も現れた。

「何か、若く見えるね。」

寝癖の残る頭、大きめのタンクトップは裾が大きく垂れ下がり、ネックラインは胸元どころではなくその下まで丸見えだ。

…夏は暑いから、いつもこんな格好で寝てるよ。」

「ふふ、そうなんだ。」

「何かおかしい?」

「ううん、あの、昨日はペンダントありがとう。あれ、高かったでしょ。実はいつかお金が貯まったら買いたいなって思ってたんだ。今日はそのお礼。良かったら、夕飯も作らさせて。」

響子の態度は昨日より軟化しているのが亜樹には分かった。


「気に入ってくれた。」

「うん、大切にするね。でも、」

良い言葉の後の逆説は聞きたくないと思う。亜樹の願いが通じたのか、『でも』の先が響子からなかなか出てこない。もしかして亜樹を傷つけない為の言葉を探しているのだろうか。

「あ、冷めちゃうから、食べよ。」

亜樹に着席を促した響子は、言いかけていた言葉を飲み込んだようだった。


「でも、やっぱり…」

「何?」

「うん、あのプレゼント、その、」

食事を始めてしばらくすると、再び響子が話をぶり返した。適切な言葉が見つかったのだろうか。

「あのね、ペンダントそのものより、日下部君の気持ちが嬉しかった。」

そう言うと、響子は耳まで赤くして俯いてしまった。

「うん、そう言ってもらえると救われる。」


なんだか照れくさい会話に響子は話をそらしたくなった。

そして、ちょうどいい話があることを思い出した。

「そう言えば、来週出るんだけど、わたし、秘書課に8/15から転属することになったの。」

「秘書課に?」

「うん。」

「随分急な話だな。」

「うん、昨日、御厨さんから言われてわたしもびっくりした。」

よりによって秘書課とは、と亜樹は思った。

昔の彼女もいれば、深い付き合いだった女性もいる。そして彼女たちは口々に混沌とした色々な人物の思惑に人間関係をため息混じりに話していた。そんな中で響子がやっていけるのか不安になる。

仕事なのだからうまくやっていくだろうに、響子のこととなるとどうもいけないと亜樹は思った。

「じゃあ、送別会開かないとな。俺、幹事やろうかな、」

「いいよ、日下部君そういうの好きじゃないでしょ。」

「でも、響子のためなら出来る。」

それは嘘偽りのない亜樹の本音だった。

そう、どんな面倒なことも、嫌なことも、響子の為なら出来る。




「知ってたんだろ、俺が移動するって。」

「まあな、でも知ったのは1週間くらい前だ。俺としてはお前と働けるのは、まあ楽しみだな。」

「せいぜい足を引っ張らないようにするよ。」

「ところで、水森だっけ、お前んとこの子、もう食ったのか?」

「ばーか、そんなんじゃないよ。…今は、」

「意味深だな。」

「久しぶりに好きだと思った。」

30過ぎたおっさんが何言ってんだか。」

「本音。」

「日本に戻るのかったりーって思ってたけど、まあいいかもな、楽しいものが一つはありそうで。彼女、俺の専属にしようかな、職権乱用で。」

「ふざけんなよ。で、帰国はいつ?」

「何、迎えに来てくれんの。」

「別に、でも飲みにくらいは行ってやるよ。」

「三日。じゃあ空けとけよ。」

「分かった。」

電話をおいて時計を見ると、始業まではまだ20分ある。

やらなくてはいけない仕事はいくらでもあるが、コーヒーを一杯飲もうと思った。そしてふと毎朝響子が淹れたコーヒーを飲めたら、どれだけ幸せかと思った。



気がつけば明けていた梅雨は、強い日差しと暑さを招いてくれた。

「ごめん、急いで乗って、」

「はい。」

駅のロータリーで待っていると、雅徳が車で現れた。」

「天気が良いから海へ向かおうか、」

「はい。」

二人が土曜にこうして会うことは、火曜に決まっていた。

三日間の時間のゆとりで、気持ちを整理して今後を見つめ直すために。

「三日間落ち着いて過ごせた?」

「はい、たぶん。それとわたし、自分が思うより、もっと日下部君を許しているって事が分かりました。」

「そう、」

「昔の日下部君は曲がった事が嫌いで、とても純粋な人だったんです。だから、彼も被害者になったんでしょうね。」

「で、今の彼は?」

「仕事は出来るけど、私生活、特に女の人にだらしない人でしょうね、きっと。」

「冷静な分析だね。」

「合っていますか?」

「日下部の上司としては最初のくだりに賛成だし、一個人としては後の部分に勿論頷くけど。で、水森さんは、自分自身どんな?」

「ズルいんだと思います。子供のふりをしているズルい女ってとこでしょうか。」

「そんなふうには見えないけど。」

「だから質が悪いんですよ。」

「へえ、じゃあ分析に至る前のデータを説明して。」

響子はどうしてその表現に至ったか、雅徳に説明を始めた。心の中にためている感情は全て吐き出してしまえばいい。響子のズルさなど、それこそ子供並みだと思いながら雅徳は相槌のみで話を聞き続けた。


「海なんて久しぶりです。」

「実は僕もです。途中道を間違えやしないかと緊張の連続でしたよ。ところで昼食はあそこでいいですか?」

「はい。でも、なにか御厨さんとステーキ屋さんて合わないです。」

「そうですか、僕は実は肉食がっつり系ですよ。それこそズルい大人なんで、あなたの前では猫をかぶっていますけど。あ、猫も肉食でしたね。」

食事の間もその後も雅徳はただ響子の話を聞いてくれた。

そして、響子の話が一区切りつくと、たった一つ、質問をしたのだった。





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