楽園のとなり

 

33



「そして、あなたはこれから僕にどう関わってもらいたい?」

雅徳はそう言うと、それ以上は何も言わなかった。時間にしてどれくらい経過したのか響子には分からなかったものの、自分が何か話しださなければ、先に進まないのだけは分かった。この車にエンジンがかからないのと同様に。


「わたしは、」

「ここで会社のようなことを言うのは、些か適切ではありませんが、まず結論、それから理由を完結かつ具体的に。出来ますね、僕の部下であるあなたなら、いかなる時も。」

「わたしは、あなたに想いをよせている一人の女性として扱って欲しい、です。理由は、あなたの優しさが、今のわたしを助け出してくれるように思うから。」

「想い…曖昧な表現ですね。あなたは僕に父親だったり、兄のような関係を求めているのですか?」

「違います。わたしは、」

「時間と選択肢をあげましょう。考えて、明日の朝、僕にコーヒーを淹れてくれるか、夕方どこかで一杯コーヒーを飲んで別れるか。水森さんが火曜に言っていたように、いたずらに時間を引き延ばすのは、全員にとってよくないから。」

「分かりました。でも、時間はいりません。答えは前者です。だけど、違う時間が欲しいんです。生理が来るまで、待ってくれませんか。」

「来なかったら?」

「分かりません。ただ、その時に何がベストチョイスか考えます。」

「でも、明日の朝はコーヒーを淹れてもらえる?」

「お嫌でなければ。それともそれは日の出と共に御厨さんの家に来いってことですか?」

悪戯っぽく笑う響子に、雅徳は優しく口づけ、『これが答え』と言った。


生理が来るまで。具体的な期限なのに、具体性が感じられなかった。いや、具体的な期限になればいいのだが…。

けれど、雅徳は決めていた。たとえそれが具体的にならなくても、自分の子供にしようと。だからこそ、先程の選択肢を言う雅徳がいたのだから。



今日、響子と雅徳が会っていることは亜樹も知っている。響子が遅くなればシロにご飯を与えてくれるだろう。でも、遅いと帰らないは違う。変な勘ぐりをされないためにも事実は伝えておいたほうがいい。響子は雅徳に断って、亜樹へのメールを送った。


『御厨さんと話したいことが色々あります。今日は帰れそうにないので、シロをお願いします。心配は不要です。御厨さんは上司で、わたしは部下ですから。それに日下部君が言っていたことも理解しています。わたしを今度は信じて下さい。』

最後の一文がどれだけ効力を発するか知っていて響子はメールの結びにそう書いた。



土曜なんだから昼過ぎまで寝て、適当に何かを食べて、適当に過ごせばよかった。でも、今まで簡単だったそんなことすら出来ず、時間の経過だけを見つめる自分がいる。ダイニングには響子が落とした残りのコーヒーとサンドイッチが置いてあった。


『元々わたしたちは仲のいい友達だったんだから、一緒に暮らしているのに別々にご飯を食べるのも変でしょ。明日から、もしも時間が合ったら一緒にご飯を食べない?』

木曜の夕飯の時、響子はそんなことを亜樹に言った。

”元々仲のいい友達”、そして今は?その答えを響子に聞くまでもなかった。どうせ、久しぶりに会った仲のよかった友達というところだろうから。

響子は、自分たちを取り巻くネガティブなものを全て取り除いて今を考えようと火曜の夜に言った。ネガティブなもの…間違えなくネガティブに含まれるものは分かる。けれど、先週の蜜月のように思えていた日々はどうなるのだろうか。

あの時、響子は確かに亜樹の愛に応えていたはず。本人は流されただけと言っていたが。あの日々も響子はネガティブの方へ押しやったのだろうか。


味を感じることなく、亜樹がサンドイッチと冷めたコーヒーを口に流し込んでいると一通のメールが響子から来た。そしてそのメールの結びはまるで亜樹を試すかのような内容だった。否、試されているのだろう。響子に対して、同じような失敗を二度はしないと言った亜樹を。


怖かった、信用しないで失うものの大きさが。

怖かった、天秤の針が反対へ振れだしていることが。

そして、もっと怖いのは、愛を知ったとたん、それが限りないものだと理解してしまったこと。

”限りない”、人の欲望と似ている。もしかしたら同じなのかもしれないと亜樹は思った。


『分かった。シロのご飯は大丈夫。』とだけ打って亜樹は響子へ返事を送った。



「シロ、食いっぱぐれることはないようです。」

「それは良かった。ところで、僕たちは夕飯どうしましょうか。」

「御厨さんのお宅っておなべとフライパンくらいはありましたよね。確か見た気がするんですけど。」

「案外良く見ているんですね。」

「すみません。」

「いや、そういう意味では。むしろ水森さんになら嬉しいですね。」

既に雅徳の気持ちは知っているが、そんなことをさらっと言われてしまうとやはり響子の心拍数は上がってしまう。

でも、一歩踏み出すために、雅徳の言葉にちゃんと返事をしたいと響子は思った。

「あ、りがとうございます。」

この返事であっているのかどうかは分からない。けれどきっと雅徳なら響子の言いたいことを分かってくれる気がした。


水族館にドライブ、それまで誰かと付き合ったことがなかった響子にとってそれは正しくイメージしていたデートだった。

夏の長い日差しのお陰で二人が雅徳のマンションに戻ってきたのは日の入り前だった。


「じゃあ、近くのスーパーに連れて行って下さい。それと、これはわたしの今日のことへのお礼なんで、もうお財布を出さないで下さい。」

雅徳の持っている料理器具と食材を確認して二人は近くのスーパーへ向かった。


休みの日は二人でこうして買い物。小さな夢かも知れないが、叶えばなんて幸せなんだろう。食材を手に取り吟味している響子の姿を見つめながら、雅徳は自分も動物が飼える物件を早く探し始めようと思わずにはいられなかった。


スーパーを出ると、響子が小さい声で『あのお店にちょっと行ってきていいですか?』と言った。

「一緒に入ったほうがいい?それとも待っていたほうがいい?」

「あ、たぶん、目のやり場に困ると思いますから、待っててもらってもいいですか?」

「別に困りませんよ。もし水森さんが僕の好みを知りたければ、一緒い選びますけど。」

…いいです。わたしが恥ずかしいんで。すぐ買ってきますから、待ってて下さい。」

言葉の通り、響子はすぐに買い物を済ませて戻ってきた。

「何を買ってきたんですか?」

「あの、下着と、夜着れそうな長いTシャツを。」

「家で着るものくらい言ってくれれば。」

「やっぱりサイズが違うんで。それとまた洗濯機を借りていいですか?明日もこれ着ないといけないので。」

「もちろん、どうぞ。」

「それと、イヤじゃなければ、御厨さんのものも一緒に洗います。わたしのだけじゃ、不経済ですから。」

「助かります。」


家に戻ると、何やら楽しげに響子は料理を作り始めた。

その姿を見れば見るほど、雅徳は響子を自分のものに早くしてしまいたいという欲求にかられる。と同時に、今現在そうしている男が簡単にはそれを手放せないであろうことも分かってしまう。


一番欲しかったものを手に入れた人間は、手放さないためには如何なる手段も厭わないだろう。

だから響子は今、妊娠の可能性を秘めているのだから。






Back    Index    Next