楽園のとなり
楽園のとなり
34
食後に雅徳が淹れてくれたコーヒー片手に、二人はたわい無い話を楽しんだ。時間は緩やかに優しく流れていく。
会社という枠の中に入れば上司である雅徳と、どうしてこんなにまでも穏やかな時間を過ごすことが出来るのか響子は不思議だった。
あの家で亜樹と過ごす時間の中にある”何か”が雅徳との間にはない。
それは一体…
「暑かったから、疲れたんじゃないですか。風呂わかしますから、ゆっくりつかって、ちょっと早めに休みましょうか。」
「はい、あ、あの、わたし、今日は、このソファ、お借りしていいですか?」
「セミダブルだから、二人でも大丈夫ですよ。」
「あ、でも。」
「そんなに信用ない?」
「違います。そういう意味じゃなくて。」
「信用してくれないほうがいいかな、この場合は。」
雅徳の口調はどこまで本気なのか分からなかった。
そして響子自身も分からなかった、自分が本当にどうしたいのか…
響子には今、二本の道が見えている。けれどどちらへ進むかの選択権は響子にはない。二本見えているというのに、既にどちらの道へ進むのかは決まっているのだから。
決まっているというのに、響子は両方の道について考えてしまう自分が滑稽だった。
なんとなく、否、その言葉自体が意味する確率よりはもっと、二人は一緒にいないほうがいい気がする。一緒にいればいつか今までと同じように、何かが狂い始めてしまうだろう。どんな形であれ。そして、その狂いは過去同様お互いを傷つける。
だったら、亜樹から離れよう。亜樹をいつまでも、心のどこかで好きでおいるために。
けれど、もし出来ていたら、…亜樹には知る権利がある。
「はぁ、」
響子は大きなため息を一つ吐いた。
どちらの道であっても、亜樹と一緒に同じ時間を歩むというのは考え辛い。亜樹が社内でどれだけの女性に手をつけたのかは分からないが、みんないつか聞いた秘書課の子のような道をただったのだろう。そして、それをあざ笑った進行形の女性は、亜樹を知った上でうまく距離感を保ち付き合っている。
仮に今の亜樹の希望通り結婚したとしても、否、妊娠したとしても、周りの女性はそれで響子が亜樹を縛ったと思うのだろう。そして彼女たちは、心の中であざ笑うのだ「結婚や子供という束縛で、亜樹は縛れない」と。束縛から逃れる為に、亜樹はどういう行動を取るだろうか。
考えるまでもない。結果は見えている。その時、再び、亜樹が響子の存在、心を否定したら、、、
「先に休んでいて良かったのに。」
「それはやっぱり、」
「やっぱり、何?ただ僕を待っていたんですか、それとも僕にベッドまで運んで貰いたかった?」
「あの、そういうつもりじゃあ、」
「でも、折角だから運びましょうか。」
そう言うと、雅徳はソファに座る響子を抱きかかえた。
「あの、御厨さん、恥ずかしいです。」
「でも、僕はこうしたかったので。それにベッドまではたいした距離ではありません。」
こうして抱きかかえられるのもさることながら、響子はTシャツの裾の長さが気になってしょうがなかった。立っているときに膝くらいの長さなのだから、こうされてしまうと心許ない。
雅徳が言った通りベッドまでの時間は短かった。けれど響子の心拍数があがるには十分の時間だった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。まあ新鮮でかわいらしい反応でしたけど。」
「ごめんなさい。御厨さんがどういう方か知っているのに、必要以上に緊張してしまって。」
「それは何かを期待しているからですか。もし期待しているなら、それにそうようにしますけど。」
相変わらずどこまでが本気なのか分からない雅徳に、響子はそもそもコーヒーの話自体が本気だったのか聞きたくなった。
「あの、御厨さん、どうして朝のコーヒーに誘ってくれたんですか?もしかして、本気じゃなかった、」
「今更それを、そんな簡単な事を聞くんですか。理由は僕が水森さんを好きだから以外にはないんですけど。朝起きたときに、一番最初に好きな人が視界に入って一緒にコーヒーを飲む。いいと思いませんか。」
「…そうですね、あの、カフェオレでいいですか?」
「え、」
「なんとなく、そういう雰囲気にはカフェオレが合うような気が、」
「水森さんの好きなように。何をよりも誰と、が重要ですから。」
たかがコーヒーのことだと言うのに、雅徳との朝だと思うと種類まで想像が出来てしまった。亜樹との今後を思うと暗い現実しか思い浮かばないと言うのに。
でも、雅徳の女性関係はどうなんだろうか…。
「御厨さん、それと、変な質問かもしれませんけど、怒らないで聞いて下さい。今、どなたか付き合っているとか、それっぽい関係の女性っていますか?」
「僕はそう言う事には器用じゃないから、同時には無理ですよ。第一あなたが現れるまで、そういう感情を忘れていたくらいですから。」
雅徳は穏やかな口調のまま響子の質問へ答えた。
「あと、前の彼女と別れたのって、いつですか?」
「一年以上前、だったと思いますよ。理由もいいましょうか?気づけば、終わっていたってとこですかね。これで水森さんの僕に対する不安はだいぶ消えましたか?」
「すみません。ホントはこういうこと聞いちゃいけないのは何となくわかるんですけど、、」
「いいですよ。別に。どうしてそんなことを聞いたのかは、それこそ何となく理解できますから。先程の返事に付け加えるなら、僕は軽々しく色々な女性にあんなことを言っているわけではありません。ただこの間コーヒーを飲んだときふと思ったんですよ、朝目覚めてあなたと二人でコーヒーを飲めたらどんなに幸せだろうかって。」
「幸せ?」
「そう、幸せ。コーヒー一杯がきっとそれ以上の幸せを僕に与えてくれるでしょうね。」
「そんなことを御厨さんに言われると照れます。」
「でも、本当のことだからそうとしか言いようがない。」
「…それと、、御厨さんは、わたしを、その、許せますか?」
「許すって何を?許してもらわなければならない事など水森さんは何もしていないんじゃないかな。」
「でも、わたし、日下部君と暮らしながらも、御厨さんと会ってたり、返事もずるずる延ばしたり。」
「僕はあなたの事情を理解しているつもりです。30も過ぎていますから、二人よりは大人な考え、対応が出来るでしょう。本音を言えば、日下部には嫉妬していますけどね。水森さんの色々な表情を見ることが出来ていたんですから。」
雅徳のその言葉は、不意に響子に亜樹が言った”ただ喜んでくれるだけどいい”という言葉を思いださせた。
色々な表情を見たいという雅徳、そして喜ぶ顔を見たいという亜樹。
現実的には、人間なのだからその時々に応じて色々な表情をするだろう。雅徳はきっと全ての瞬間を受け入れてくれる。先程の言葉からそんな気がする。
一方亜樹は、二人で一緒に暮らすなか響子の不安、辛さ、悲しみを表す表情ばかりを見ていたからああ言ったのかもしれない。
「どうかしましたか?うかない表情ですね。」
「そんなことは…、うかない顔に見えました?」
「そうですね。」
「じゃあ、楽しそうな表情になるようにして下さい。」