楽園のとなり

 



月曜、やはり亜樹は響子よりも先に出社していた。


響子が席につくと、週末はどう過ごしていたのかなどの質問を当然のように投げかけてくる。


「いつもと同じでした。」

会社の同僚として短い返事をし、その後は二人の間にそんな会話がなかったかのように響子は仕事の準備に取り掛かった。


夕方になると、小さな付箋が亜樹の手によって響子の目につくところに貼られた。

そこには数字が。桁数というか、始まりの数字からして携帯の番号。

誰のものか聞くまでもなく亜樹のものであろうことが分かる。


そして、もう一枚、その上に重ねられた。


《メシでも食いに行こう。》


男の人の書く字にしてはきれいな字、昔と変わらない亜樹の字を眺めながら響子は付箋に字を走らせた。


《先約があるので》


本当はそんな約束はない。でも、この常套句が一番いい理由になる。



《メシでも食いに行こう。》という付箋は次の日も次の日も貼られた。

そして、響子も同じ付箋を貼り返し続けた。







木曜、亜樹はまるで今週の日課と言わんばかりに、響子のキーボードに付箋を貼った。内容は昨日までと同じもの。

だから返される付箋も昨日までと同じだと思っていた。


ところが水曜までの付箋とは違う色のものが貼りかえされた。

《分かりました。》

そして、更に待ち合わせ場所と時間を記した付箋がその上に重ねられた。


今日の響子の顔色はあまりよくない。

いい加減毎日こういうことをするのは止めてもらいたいとか、体調絡み―単刀直入に言えば生理が遅れているとか、を話したいが故に食事を了承したのではないかと亜樹は考えた。





待ち合わせ場所に先に着いたのは響子。

ホットココアを飲みながら、亜樹に何をどう話したらいいものか悩んでいた。


待ち合わせ時間を少し過ぎて入ってきた亜樹の目に映る響子は、物憂げで今にも消えてしまいそうだった。

そうしてしまったのは自分だという負い目が湧き上がる。

けれども、亜樹の想いはもう引き返せなくなっていた。



あの頃の響子と今の響子。

個体は同じ、けれども違う。




響子と初めて会ったのは、入学した高校。

当時は幼さが残る顔で、きれいというよりは可愛い子だった。

最初はクラスが同じでも、席が離れていたせいか言葉を交わしたことはほとんどなかった。


二学期になり行なわれた席替えで、亜樹は響子の前の席に。

位置関係上、すぐに簡単な挨拶を交わすようにはなった。


そして、響子が亜樹の背中を突っついたのは9月の終わり。


「日下部くん、数学のノートを見せてもらってもいい?」

「あ、いいけど。でも、自分で一度やったほうがいいと思うよ。」

「うん、やったんだけど、どうも上手くいかなくて…。」


ため息をつきながら、問題集と回答を見比べる響子。その心許無さそうな表情は本人には悪いが、普段の可愛らしい顔と違い女の表情をまとっていると亜樹は感じた。


思わず見入ってしまった亜樹に、響子は写したらすぐに返すからと微笑んだ。


一学期の終わりには、亜樹が学年でも成績上位者だということは周知のことなっていた。

だから、ノートを写させて欲しいという言葉は響子からだけではない。

けれどそういう人間は最初から写すだけ。ところが、響子は出来ないなりに自分で努力した後、亜樹のノートを借りたのであった。


ノートにも何度も書いた跡がある。そして、亜樹の回答の流れと自分の回答の流れを見比べて赤いボールペンで注意書きを入れる。亜樹は何となく見ているつもりだったが、注意書きがあまりその回答に即していないが故につい声を出してしまった。


「な、そこはさ、」

最初のきっかけは小さなもの。けれど、それから亜樹と響子は色々と話をするようになった。


二年の始業式の日、亜樹はクラス発表の掲示板で自分の名前よりも先に響子の名前を探している自分に気づいた。

そして二人が同じクラスであることに喜んだ。





響子が待つ席へ行くまで、亜樹はひたすらあの頃へ戻りたいと心の中で願った。

あの頃の響子ならば手を伸ばせば、掴めたはず、そう思いながら。


「水森ごめん、待たせちゃって。」

自分にかけられた声で、響子は亜樹の到着を知った。

亜樹にとってそれは、この待ち合わせが男女のそれとは決定的に違うことを示唆している。

通常、自分が待たせたのであれば、待っている相手はその姿をしきりに探し、視界に捉えたときには笑みを浮かべる。

でも、今日はそれがない。寧ろ、目の前の女性の顔には疲れが見える。


「何がいい?」

「え、」

「メシ、何がいい?」

「あ、そうだよね。料理にリクエストはないけど、静かなところがいいかな。」

「分かった、じゃあさ、いい和食の店があるからそこ行こ。」


『静かなところ』その言葉が意味するのは、話したいことがあるということ。亜樹は自分の知る店で、最も静かな、そして、個室作りの店に響子を連れていった。


和食と言ってもそれほど値段の張らないその店は、明かりも含めて穏やかな雰囲気を提供してくれた。けれど二人は本当に食事をしているだけ。会話がない。


何度か皿と皿の合間に味の感想などを亜樹はふってはみたものの続かない。その状況のままデザートになってしまった。


デザートは『食事』がそろそろ終わることを意味している。その焦りからか、亜樹は何の脈略もなく唐突に鞄から紙の束を取り出した。


「ペットも大丈夫な物件。」

目を瞬かせた響子もややあってから、それが何か理解した。


亜樹はその顔を見て、今日は何が何でも、たとえ強引な手段を用いても響子に同居を了承させようと心に決めた。


「いいなと思うものをピックアップして。」

亜樹が取ったのは、YES・NOを問うのではなく、YESのみが待つ形式で質問をするという手段。


そうは言われても選びようがないというのが響子の本音。ぱらぱらと何度も同じところを眺めている。


「そうだな、沢山は見てまわれないから4~5枚選んで。もしかしたら既に決まっているかもしれないから、結局は2~3件になるだろうし。」

「あのぉ…。」

「なに?」

やさしい光の中で見る亜樹の極上の笑顔に響子は言いたいことも言えず、紙を再度眺めた。


最終的に響子が選んだ間取り図は4枚。2DKまたは2LDKの物件。現実味のない話でも真剣に選んだ。


「あの、日下部くんが選んだ物件のエリアって治安がいいの?」

「いいほうだと思うけど、なんで?」

「…別に。」

「そう、ところで俺明日会社帰りに不動産会社へ行って、土曜に内覧できるか聞いてくるから土曜は空けといて。」

「え、でも、」

「選んだからには、見ないとな。」

「…」

「じゃ、そろそろ行くか。」

亜樹としては、響子から否定の言葉が出る前に立ち去ってしまいたかった、この場所から。


「待って、今日はお願いがあって…、日下部くんの罪悪感につけ入るみたいでイヤだけど、」

浮かせた腰をイスに戻した亜樹が、話の続きを響子に促す。


「…あの、うちまで送ってもらえる?」

「もちろん送るけど、急にどうして?」

「うん、後で話す。」

そう言うと、響子は亜樹から伝票を取り去りレジへ向かった。




「俺の分。」

「いいよ、日下部くんの貴重な時間代だから。」

本当は全てを自分が払うつもりだった亜樹としては落ち着かない。

けれども、響子はそのことはもうおしまいとばかりに駅に向かって歩き出してしまった。


「なあ、今日は送ってもらうためにメシをOKしたんだ?」

「…」

「理由は後で話すって言ったよな。」

「…私の間違えかもしれないけど。」


響子はぽつりぽつりと昨日家へ帰るまでの話を始めた。


昨日会社を出たのは19時頃。特に寄るところもなく、いつもと同じ道順でアパートへ向かった。

この時間帯の電車は確かに混んでいる。前日も例外ではなかった。

電車が走り出して少しした頃、響子は後ろの人物がやけにくっついてくるような感じがした。

ま、混んでいる電車の中なのでしょうがないのかもしれないが。


けれども、駅をでてから少ししたところで響子は確信した。同じ足音が自分の後をついてきていることを。


とにかく駅から然程離れていない自分のアパートをありがたく思った。

気付いていない振りをして、同じ速度で帰りしっかり施錠すればなんとかなる。これが、暗がりばかりが続き駅から離れたところだったらと思うと…。


けれども部屋に辿り着き、落ち着きを取り戻した響子は気付いた。先程の足音が自分のアパートまで来て、場所を確認したであろうことを。


昨日の夜はその不安からあまり眠れなかった。


「今日も、明日も勿論送る、けど、送るだけじゃあ根本的な解決にはならないな。」

自分に大きなチャンスが転がってきたことを亜樹は感じた。

畳み込むなら今。


「今日も、明日も泊まるから。それに水森が言うように、今の俺は罪悪感の塊だから安心しろよ。変なことはしないから。」

「あ、でも、明日仕事…、」

「どっかコンビニ寄れば大丈夫。明日は一緒に不動産屋に行ってから、俺んとこ寄ってくれれば何とかなるし。」


水曜日の夜に響子が抱いた恐怖は、亜樹の申し出を却下できないほどだった。


響子は亜樹の罪悪感を、亜樹は響子の恐怖心をそれぞれ利用していることを知りながら、お互いの目的のために先に進んだ。




Back    Index    Next