楽園のとなり
楽園のとなり
7
狭いアパートでの一週間。
それは不思議な同居生活。
ちょっと前までの響子には想像が出来なかった毎日。
確実にお互いの存在を意識し、日常をこなしていくことがいかに難しいかを痛感せざるおえない。
同居相手は男の人。もっと言うなら、高校時代の同級生であり会社の同僚。
そして、昔好きだった人、そして、自分をレイプした人。
そんな人と同居をするなんて自分はおかしいのかもしれない?
一週間毎日思い続けた。
そして週の中頃からは、不意に目の前の人物が自分をレイプしたという事実がフラッシュバックし始めてきた。
自分の中で封印した事実なのに、水面下の意識は知らないうちに脳へ働きかけてしまう。
金曜の夜は、一週間転がり込んだということで亜樹が感謝を込めて響子に夕食を作った。それは響子にとって最後のチャンス。
一週間の区切りとばかりに、亜樹が響子にこの共同生活の感想を食後に伝えた。
「一週間ありがとな。毎朝の朝食に、夜のお茶まで。今まで生きてきた中で一番楽しい一週間だった。」
「良かった。狭いからくつろげないんじゃないかと思って。それも明日の朝までね。それと…、」
「それと?」
「やっぱり無理なの。ここまできて、今更だけど、無理なの。今までかかった費用も日下部君の新しいところを契約する費用も全部出すから、だから、この話、なかったことにして。」
響子の言葉の後、二人には沈黙がやって来た。当然の沈黙かもしれない。響子にとっても、亜樹にとっても。
その沈黙を破ったのは、亜樹の言葉だった。
「分かってる。分かってた。水森が必要以上に俺に近づかないのも、心のどこかで恐れているのも。俺もそこまで馬鹿じゃないから。第一、俺の犯した過ちは許してもらえるようなことでないこともよく分かっている。だから許してくれとは言わない。ただ、チャンスをくれ。」
「チャンス…、」
「そう、昔のように笑いかけてもらえるような関係に戻るための。それに、水森、生理まだ来てないよな?、あってるだろ。」
「私、どっちかって言うと不順だから。色々あって体が落ち着いてないのかも。」
「じゃあ、まだどっちか分からないってことだろ。そのことだって水森一人に押し付ける気はない。俺は、きっと今水森を離したら一生後悔しなくてはいけなくなるのが分かってる。だからチャンスをくれないか?」
「それは日下部君本位の話だわ。私は、あなたとの間に起こったことを忘れたいの。そうすれば、なかったことに出来れば昔みたいに戻れるんじゃないかしら、違う?」
「違うよ。事実は事実だ。起こってしまったことを葬り去って完全に忘れることは出来ない。むしろ、どう受け入れて克服していくかが重要だろ。このままじゃ、水森きっとどんな男とつきあっても、そこを乗り越えられないよ。原因を作った俺が言うのもなんだけど、分かるんだ…」
「そうよ、あなたはレイプしたのよ、わたしを。しかも見下しながら。当然と言わんばかりに。」
感情が高ぶっていたせいか、初めて響子の口から亜樹にレイプをされたという言葉が発せられた。それと同時に目からは涙が。
「ごめん、もうその気持ちを溜めないでいいんだ、事実なんだから言ってくれて。俺を憎んで克服できるなら憎めばいい。とにかく、自分の内側に納て吸収しようなんてしないほうがいい。お互いに向き合おう。」
泣きじゃくる響子の肩を亜樹は自然に引き寄せていた。自分には触れる権利はないと知っていながらも。
そして、響子の体は強張ると同時に精神的な苦しさからなのか暴れだした。両手を握り締めて、亜樹の胸元を強く押し返そうとする。けれども、男女の力差がある上、感情が高ぶりすぎていて力を込められない響子は非力だった。
「水森、全て出し切って、泣きたければ泣けばいい。俺にあたりたければあたればいい。そうすれば、今よりは多少気が楽になるから。俺にぶつけて。俺はそれを受けとらなきゃいけないから。」
そう言った亜樹の声は今までのどの声よりも弱々しかった。けれど、抱き締める腕はとても強い。その強さはまるで二人で現状をなんとかしようと響子に訴えかけているようだった。
響子は感情のコントロールが出来ずに泣いたことなど成人してから一度もなかった。だから、時間にしてどれくらい泣いていたのかも、何をどう口走ったのかも思えていない。
ただ分かることは、ずっと亜樹が傍にいて先程と変わらない腕の強さで抱き締めてくれているということだけ。
「ごめん、取り乱して。もう大丈夫だよ、日下部君。それに、もう十分謝罪してくれていたのに酷いこと言っちゃって、ごめんね。」
「謝る必要はない。でも、分かって欲しいんだ。俺はどんなことがあっても今の水森を離す気がないってことを。今後水森が昔のように屈託のない笑顔を取り戻して、俺の元を去っていくのはいい、だけど、今のままでは…ここでこのまま暮らさせるわけにはいかない。」
謝罪や治安のことだけではなく、自分自身を心から亜樹が心配していることを響子は感じた。あの日、鞄からマンションの間取図を出した亜樹にどんな決心があったのかも。
泣き止んでいるにも関わらず響子は不思議と亜樹に体を預けていた。そこに怖いという感情はなく、優しい空気が自分達を包んでくれているような錯覚だけが存在した。
― 神様、私に勇気を下さい。全てを乗り越えるために ―
「…くさ、か、べ、君、よろし、くね。」
途切れ途切れ、それでもきっと通じたであろう本意に響子はより深く亜樹の懐の中で俯いてしまった。
「水森、個人的にはいつもでもこうしていたいんだけど、明日の準備もしないといけないから、そろそろ顔上げて。」
「上げられない。目、腫れてるよ。」
「見ないから。」
それから二人は響子の少ない荷物をまとめた。
「こうしてまとめると、少ない少ないとは思っていたけど、本当に少ないね。」
「引越しが楽でいいじゃん。」
「うん。日下部君の荷物は?」
「………、」
「どうしたの?」
「ん、水森が初めて俺の身の回りのことに興味を持ってくれたから嬉しくて。」
「何それ。昔は色々興味を持ってたんだから。」
「そっか。」
「うん。」
引越しは予想通り簡単だった。簡単とはいえ、一人暮らしをしていた響子の引越しなので、生活に支障がない程度に物も揃っている。
「何か物が入るとまた感じが変わるね。」
「そうだな。ところで白のトイレをどこに置くか考えないとな。」
「私の部屋の中でいいよ。」
「今までみたいに洗面所の方が落ち着くんじゃないか?」
「いい?」
「勿論。なんでもこうやって二人でちゃんと決めていこうな。」
「うん。そうだ、他にも色々決めておこう。」
「その前に俺の荷物をまとめにいかないと。」
二人は翌日に行なわれる亜樹の引越しのために、亜樹のマンションへ向かった。亜樹は自分の引越しを手伝ってくれるほど、響子が心を開きだしてくれていることが嬉しかった。
でも、どうすれば響子にとって最良の結果をもたらすことができるのか分からず仕舞いでの同居であることも事実。とにかく同居、と進んできただけに裏目に出ないように細心の注意を払わなくてはいけないと思っていた。