楽園のとなり

 



同居を始めてから一週間は、毎日が慌しく過ぎた。必要なものを購入したり、不要になったものを処分したり。

そもそもこの同居というより、引越し自体が二人だけの秘密なので悠長に有給をとって後片付けが出来るわけもなかった。



—コンコン—

「おはよう、朝食できたよ。」

扉の向こうから響子の声がする。引っ越してから今日までの一週間、響子は毎日朝食を作ってくれていた。


響子にとってそれは、会社から帰って引越しの片付けを色々してくれている亜樹への感謝のしるしであり、二人の間にある何かに心が囚われないようにするためのものだった。



二人の共同スペースであるダイニングに亜樹が向かうと、朝食を並べていた響子が微笑んだ。

「今日は休みだから、いつもより時間がある分、朝食も平日の三割増しくらいかな。」

…」

「日下部君、何か変?」

「あ、いや、ありがとう、いつも。」

変なのは、亜樹の心の中。響子の微笑みに頭が真っ白になり、何かに心を鷲掴みされた。

まさかそれを響子に言えるわけなどないが。


「水森、一緒に住んでいるだけなんだから明日からは俺の分をわざわざ作らなくてもいいよ。」

「迷惑だった?」

「そういうんじゃないけど…、ほら、水森にばかり負担を掛けるわけにはいかないから。」

「いいよ、どうせ作るんだから。気にしないで。」

つい響子の笑顔に頷いたものの、亜樹の胸中は複雑だった。朝食を作ってもらうことで、自分には許されないことを期待してしまいそうで、そして、現実を離れ、都合のいい世界を作り上げてしまいそうで。



同棲。同居。

この二つの言葉の定義の違いは?


同棲、一つの家に一緒に住むこと。

同居、一つの家に二人以上の人が一緒に住むこと。

あまり違いがないように思える。けれど、同棲には別の意、『特に、結婚していない男女が一緒に住むこと』という説明がある。


これは同居。そして、この同居が始まったきっかけは自分が犯した罪。大切な人を信じれなかった弱い自分が犯した罪。力の違いと状況を見方にすることで、自分の中の黒い部分が溢れ出した罪。

その罪を償うため、これからの自分の毎日があることを忘れてはいけない。


一週間前までは、こうすることで全てがいい方向へ向かうものだと思っていた。でも具体的にはどうなんだろうか?自分はどうすることで犯してしまったこの大きな罪を償えるのか?そんなことを思えば思うほど、深みにはまり先が見えなくなる自分に亜樹は苛立ちを感じずにはいられなかった。


響子と自分は対等であって、対等ではいけない。

肉体的には被害者と加害者。何かの拍子にフラッシュバックするであろう苦しみが響子には付きまとっている。せめて、心理的にすこしでも響子を有利に立たせるためには?



朝食の後片付けをしていると、響子が急に顔を赤らめながら亜樹の目をじっと見つめた。

「あの、いろいろあったから遅れてたけれど、その、きたから、生理。だからもう心配しないで。」


喜ぶべきことなんだろう。けれど自分と響子の間にこれで何もなくなったことを亜樹は残念に思った。できたらできたで大変だったに違いない。けれどもし仮にできていたら、そのことで響子を物理的にも精神的にも閉じ込められていただろう。


考えていることが、支離滅裂。閉じ込めたい自分、心理的に有利にしてあげたい自分、これでは支えなくてはいけない自分が先に崩れてしまいそうだと亜樹は心の中で毒づいた。


「そのよく分からないけど、腹とか痛くなるんだろ。俺にできることがあったら何でも言って。するから。」

「大丈夫。もう10年以上繰り返していることなんだから。」

「でも今の俺にとっては、水森のためにできることを積み重ねていくことが重要なんだ。たったそれだけで罪が軽減されるなんてことは思ってないけど。」

「日下部君…」

「この同居はさ、俺の罪滅ぼしなんだ。昔、水森を信じなかったこと、この間してしまったことの。俺どんな小さな事だって、水森の力になりたいと思っている。水森の気持ちにまた余裕ができて、誰か好きなやつが出来たら相談にのるし、そいつと一緒に住みたければ、俺はすぐに出て行く。ただ、水森の傍に支えが出来るまでのつなぎなんだから、俺は。」


罪滅ぼし。その言葉は響子の心に波紋を起こした。中心はしっかりとした円、だけどその広がりは線は薄いものの幾重にも重なり広がっていく。

自分の中で、亜樹との間にあったことは何処まで広がってしまったんだろう。

忘れようとしていた自分。それはどうして?それは、簡単。目を背ければ、辛さがこみ上げてこないから。あの頃に戻れそうだから。


あの頃に戻る…仮に戻れたとして、その先は…。

自分はどうしたいというのだろうか?


そもそも、自分達の土台にあるのは昔のようにお互いを密かに好きだという感情ではない。亜樹は罪が故。自分は恐怖心の為。その恐怖心は、あの日の電車の一件から。でも、そこまであのことに対して恐怖を抱いてしまうはあの時亜樹がしたこと。それを決定づけた男女の力の違い。



この歳になれば、男女の付き合いに体の繋がりがないなんてことがないのは響子だって知っている。亜樹が言うように余裕ができたら誰かを好きになるのかも知れない。だけど、その先にあることを思うと

亜樹は罪を償うために同居をしている。自分と亜樹の同居理由は…、考えただけで体が強張る自分にそれは可能なんだろうか?


「水森、水森、大丈夫か?やっぱ腹痛いのか?」

「あ、ううん、大丈夫。ゴメン、ぼーっとしちゃって。お腹が痛い訳じゃあないけど、気分転換にどこかでお茶でもしてくるね、今日は。」

「あ、うん。」


自分もついて行こうかという言葉を飲み込み、亜樹は優しく響子を見つめた。それが今の自分に許されている最大限に思えたので。勿論、何処へ行くのかなんて聞く資格もない。




身支度を終えた響子が自室を出て、駅に向かったのはそれから1時間後。食事の時に出掛けることを伝えたし、同居をしているだけなのだから、亜樹にわざわざ今から出掛けることを伝える必要はないだろうという結論を導き出すまでにかかった時間でもある。


それでも歩きだしてから何度となく、やっぱり伝えるべきだったろうかと考えてしまう自分がいるのも事実。

結局、気にしまいとしても亜樹の存在は大きい。

それはどういう意味で?

昔好きだった人?、それとも懐かしい高校時代のクラスメイト?それとも…、過去を表す形容詞と亜樹はつながる。


けれども、現在の亜樹に対しては?


残念だけれども、強制的に体の関係を持った人、率直に言えばレイプした人。視点を変えたところで、たまたま配属された会社の同僚。

4月から、あの時までの亜樹を評価したとしても、会社での態度はあまり、というかいいものではなかった。更には、小出達が話すように女性関係は派手そうで…


でも、その原因は直接でないにしても自分も絡んでいて



その日の夕方、響子が帰宅すると亜樹はいなかった。

当たり前のことだけれども、亜樹が響子に何処へいくか告げなくてはならないという義務はない。

一日中、ぼんやりとコーヒーを何杯も飲みながら考えていた答えが、今亜樹がここにいないということ全てのような気がした。



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