夏休みの算数
夏休みの算数
4
「おはよー。いよいよ始まったね、受験対策夏季補講。」
「なんか夏休みじゃないよね。ほぼほぼ全員来ているんだから。普通に時短授業だよ。」
「言えてる。だけど9時半から2時とはいえ、学校来てればだらだらしないからいいかも。どうせみんなその後も勉強するんだろうけど。」
8月の第一週は学校の補講。最終週も。真ん中は予備校の1週間短期集中コース。
休みだけど、歌乃子とも哉多とも顔を合わせてしまう。
哉多とはあれからメールのやり取りすらしていない…。ううん、一回はメールが来た。でも、返事をする必要がないような内容だったから何も返事はしなかった。
一方通行。だから逆走は出来ない。
そういえば、今日はどうするんだろう。今まで通り、何もなかった時同様、一緒に帰るんだろうか。
「朱莉ちゃん、どうしたの、ボーっとして。先生来たから、また後でね。」
「あ、うん。」
日中も哉多と顔を合わせることはなかった。メールもない。
なんだか待ちぼうけも嫌だから、一人で帰ろうとすると後ろから哉多に呼び止められた。
「朱莉、」
声で分かる。ちょっといらっとしているのが。
それに走って来たのも。
そしてわたしの体は変だ。体の奥が怒りを含んでいそうな声に反応した。
でも今はもっともらしいことを言って、哉多の気を静めないと。
「哉多、」
「教室行ったら、もう帰ったって。」
「うん。うちのクラス最後の授業、ぴったりきりよく終わったから。教室出てきた。残って勉強している人の邪魔になると悪いでしょ。どっか適当なところで、哉多にはメールしようと思って。」
嘘じゃない。哉多には『先に帰る』ってメールをするつもりだった。
もしもわたしと帰る気だったら悪いから。ただ、わたしがもしも程度に思っていたことが本当になっただけ。
そして予定より早くわたしが哉多の視界に入って呼び止められただけ。
「この1週間もいつも通り…、教室居辛いなら、俺の教室のところで待ってれば。」
「それはちょっと、」
「…じゃあ、やっぱいつも通り朱莉の教室で待ってろよ。」
「…うん。」
いつも通り…。確かにわたし達にはいつも以上も以下もない。
ただあの日が特別だっただけ。
「今日、うち来ない?」
「えっ、あ、」
「母さんいるから。警戒しなくていい。勉強、しないと。」
ちょっと歯切れの悪さを感じたけど、いつもと大して変わらない哉多の素っ気ない態度と言葉。
きっとわたしもそれに対して今まで通りに対応しているはず。
時間が経てば経つほど、どんどん普通に戻っていく。特別なんてなかったかのように。
だから、月曜に次いで今日も哉多にぶっきら棒に家に寄るように誘われて、何の抑揚も付けず『うん』と答えていた。
「朱莉ちゃん、いらっしゃい。」
「こんにちは。お邪魔します。」
「もう、この子無愛想なのに、いつも仲良くしてくれてありがとうね。」
哉多のお母さんはそういうけど、本当は違う。
歌乃子に対してはもっと違う表情を哉多は見せる。無愛想なのは隣にいるのがわたしだからだ。それだけのこと。
「別に無愛想じゃ、」
「あ、今日はケーキを用意しておいたから、先に食べて。頭に栄養をあげないとね。」
「すみません、わざわざ。ありがとうございます。」
「いいのよ、そんな。男兄弟しかいないとなかなかケーキ屋さんなんて行かなくなるから、楽しかったわ。昨日、哉多が朱莉ちゃん連れてくるって言うから、おばさんネットで夏限定とか色々調べたのよ。」
「母さん、そこ突っ立ってたら邪魔。中、入りづらい。」
哉多のお母さんが言っていたことが気になって何度かぽーっとしたけど、概ね勉強に集中出来た。
月曜よりは緊張しなかったし。
「もう6時だ。わたし、帰る。」
その証拠に月曜より長居してしまった。
「送るよ。」
「いいよ。外、まだ暑いから。それより、今度ケーキのお礼に何か持ってきた方がいいよね。」
「別にいいんじゃない。」
「…そうかなあ。」
あ、そうだった…、誘われてもいないのに、次に来るときの話なんて。
哉多が言うように、別にどうでもいいことだ。
「明日もうち来ない?」
「えっ?」
「明日も来れば。」
良く分からない。次に来る時の話をしたら、ぶっきら棒に返してきたくせに、自分からはそんなことを言うなんて。
「しょっちゅうお邪魔したら悪いから、止めておく。」
「気にしなくていい。明日は誰もいないから。」
否、その方がよっぽど気にするんだけど…
「んん、哉多、駄目だよ。」
「どうして、」
「下に哉多のお母さんいる。」
「キスだけなら問題ないんじゃない。それとももっと先のことすると思った?声、出さないならしてあげられるけど。」
「そういうことじゃなくて。良くないよ、こういうの。」
「どうして?みんなしてるよ、気持ち良くなるために。」
哉多の声のトーンと視線は危険だ。まるで暗示にかけられるようで。
深いキスをしているうちに、直に胸を触られてしまうほど。気持ち良くて体が火照る。
「これくらいの声なら大丈夫か。どうする、下も掻き回されたい?」
「だめぇ、」
「説得力に欠くエロい顔だけど。乳首だってこんなだし。」
「あうっ、」
「明日、来るだろ。」
来ないって言ったつもりだけど、キスで声は外には出てくれなかった。
「なんか元気ないね、朱莉ちゃん。」
「そんなことはないけど。」
「哉多と上手くいってないとか?」
「上手くも何も、いつも言っているように普通だから。普通には良いも悪いもないでしょ。」
「…哉多って何してんだろ、もう。」
歌乃子の呟きは聞こえない振りをした方がいい。だって、聞こえてしまったら『ナニ』はしたよって、苦笑交じりに言わなきゃいけなさそうだから。
「あ、哉多来たよ。」
「歌乃子も一緒に帰る?」
「いいよ、わたし、寄るところあるし。」
「付き合おうか?」
「ううん、いい。じゃあ、またね。」
結局、哉多と二人で帰ることになってしまった。
どうしよう、絶対にわたし達の意思は一致していない。
「わたし、本屋に寄ってく。」
「分かった。」
分かってない。一人でっていう修飾詞を付けなかった自分が悪いんだけど、哉多は一緒に本屋へ行く気でいる。
「何買うの?」
「買うっていうか、参考書見たくて。」
「ふうん。それ、今度にして。時間があるときにゆっくり付き合うから。今日は折角二人きりになれるから。」
そんなにセックスしたいんだ…
「わたし、今日は哉多の家、行かない。」
「急にどうして。」
「急じゃない。昨日、言ったよ。哉多がわたしの言ったことをちゃんと聞いていなかっただけ。ううん、そもそもわたしを理解してくれてないから。」
「…」
「わたし、哉多といると惨めになる。そんな自分、嫌だから、もう一緒に帰るのやめよう。」
哉多の隣を言葉と実際の距離で逃れようとしたのに、腰のあたりを引き寄せられた。
だから言葉とは裏腹に、こうして学校帰りに並んだ距離は今までで一番縮まってしまった。
「俺、朱莉を理解はしていない。」
わざわざはっきり言わないで欲しい。もうここからして、ホントに理解する気がないのが良く分かる。
「でも、朱莉も正しくは俺を理解していない。いつも視線合わせないし、会話続かないし。」
「だって、それは、」
「話し合いたい。だから俺の家、今日は絶対に来て。」
手をつなぐと言うより、手を掴まれた。
確かにこんなところで言いあいをしても無駄だ。誰に見られるか分からないし、暑いし。
手を引きながら哉多は言った「どうしたらいいのか分からなかった、ずっと」と。